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ハロウィンの掛け声は、「Trick or Treat」から「Trick and Treat」にしよう。

今週のお題「ハロウィン」

 
2018年10月31日は、ハロウィンであった。
今やすっかり恒例行事として定着している。
渋谷の若者の馬鹿騒ぎもこの時期の風物詩になっていて、悲しく感じる。
 
渋谷の若者が悪目立ちしているが、本来は子どものための行事だ。
日本のひな祭りと同じで、厄払いの意味合いがある。
子どもの健やかな成長を願う私は、ハロウィンの浸透自体は良いことと考える。
 
さて、ハロウィンと言えば「Trick or Treat」の掛け声だろう。
この英語だけ見ると二者択一のようにも受け取れないだろうか?
つまり、「お菓子か悪戯か、どちらかを選んで」と選択を迫っているように私は感じる。
 
この掛け声に対して、受け手は用意していたお菓子を手渡す訳だ。
用意されたお菓子がのど黒飴でも、きっと相手は喜んでくれるはずだ。
いや、やはりチョコレートやクッキーの方が断然嬉しいし、のど黒飴だと上手くリアクションが取れないか。
 
それにしても、何故みんな悪戯を選ばないのだろうか?
受け手は悪戯を選ぶ事も出来るはずだ。
お菓子を用意するだけが芸ではない、例えば…
 
「魅惑的な甘いお菓子を渡すくらいなら、いっそ悪戯をされた方がマシだ!」
「おばけがどんな悪戯をするか興味があるな…」
「一緒にすごい悪戯をしようぜ☆ヒャホーイ!」などなど。
 
しかし、「Trick or Treat」と言われたら、決まって無条件でお菓子を手渡す。
やはり、受け手側は悪戯をされたくないのだろうか?
それとも、お菓子を手渡すのは規定事項なのだろうか?
 
エキサイト翻訳で試しに翻訳してみましたら「策略あるいはもてなし」となった。
「Trick or Treat」における策略とは何を指すのか?
それは、【もてなしをされる為の】策略ではないか。
 
よく見かける日本語の翻訳は、「お菓子をくれないと悪戯しちゃうぞ」だ。
やはり、お菓子を手渡すことが前提になっている。
本場欧州ではお菓子を渡す家には目印があり、最初からお菓子を渡すことが決まっている。
 
これらのことを鑑みて正しく翻訳すれば…
「(今日、おばけをもてなす為の)お菓子をくれないと(罰として)悪戯しちゃうぞ」となる。
つまり一種の恐喝であり、お約束だ。
 
ハロウィンで主体、主役は、子どもだろう。
子どもも今日のおやつの当てにしているだろう。
そこで「いや、悪戯をして?」と言われても困惑するだけか。
 
それでも、誰か「お菓子を手渡す」前提を覆す強者はいないだろうか?
それとも、ハロウィンで想定される悪戯の限度が決められないのだろうか?
私の感覚で言えば、家一軒くらい燃やされても良いのではないだろうか…?
 
いや、社会通念で言えば、やはり限度はあるだろう。
暴徒化した若者が軽トラックをひっくり返すのは度が過ぎる。
そも、子どものためのイベントなのに、良い歳した人間がしゃしゃり出るのはどうなのだろうか?
 
暴徒化した若者は、何故、限度を超えてしまったのか?
様々な状況があるだろうが、原因の1つに「限度」が分からなかったのではないだろうか?
子どもの頃に歳相応な悪戯をしなかったからではないだろうか?
 
私は、子どもにもっと自由を与えても良い、と考える。
ハロウィンくらい、悪戯して良いはずだ。
つまり、私は提唱する。
 
ハロウィンの掛け声は、「Trick or Treat」から「Trick and Treat」にしよう。
 
お菓子も悪戯も両方させる。
むしろ、悪戯をしないとお菓子をあげないくらいの勢いで良い。
子どもには、怒られるかどうかの境目を攻めて欲しい。
 
怒られるかどうかの境目を探る、というのは子どもの時に経験した方が良い。
ここまでなら怒られない、この人はここまで許してくれる、そうした体験を多くした方が良い。
体験は経験になり、想像の助けになり、限度を計る術を手に入れるだろう。
 
真面目で良い子な子どもほど、させてあげたい。
セーフティネットを作るのは、大人の役目だ。
ハロウィンくらい、子どもに化かされても良いはずだ。
 
現実に悪戯をできる環境を作るのも大変だろう。
しかし、ハロウィンを日本風にアレンジされて最早本来のハロウィンからかけ離れてきた。
ならば、私の提唱が、悪戯に主眼を置いても問題ないはずだ。
 
おばけを、子どもを悲しませるより喜ばせた方が良いと考える人は大勢を占めるだろう。
より良いハロウィンにするために知恵を出すべきだ。
そうした狙いも込めて、この提唱を掲げる。
 
来年のハロウィンには自制した大人と無邪気な子どもの映像が流れることを切に願う。