ゆっくりと湯船に肩まで浸かって考えた。
私はこれから先、どういう展望を描けば良いのだろうか?
答えのない問題に、ぬたぬたと粘ついた脳みそのネジを回した。
例えば、「物事は10の行程で完遂する」と仮定すると、私は大体3くらいで止まる人間だ。
何かを閃く、行動に移す、低クオリティながら形にする、まではできる。
しかし、4以上、形にした物の展開や将来の構想に全く繋がらない。
「できないと自分で思い込んでいるからできない」と人生の先輩に諭されたこともある。
しかし、ゆっくりと考えても、先の見通しが見えてこない。
いつも見切り発車、後で考える、今を楽しむ生き方をしてきたから、展開する能力が欠如している。
有り難いことに無能な人間である私でも仕事に有り付けている。
どうにかこうにか仕事をして、どうにかこうにか1日を過ごしている。
しかし、最近は仕事に傾き過ぎて、碌に考えることができていない。
暇であるから考えることができる、と言う訳だ。
「忙しい」という漢字が「心(りっしんべん)を亡くす」と書くのは、仕事に専心するあまりに考えることがなくなることなのかもしれない。
碌な事を考えずに済む利点もあるが、碌に考えられない欠点の方が私は大きく感じる。
こうしている間にも時間は過ぎていく。
明日も普通に仕事だ。
湯船で浸かっても良い考えが浮かばないのに、考える時間が足りな過ぎる。
考える時間を創出するには、削るしかないのは自明だ。
しかし、削るにしても、何処を削ると言うのだ?
兎角、「削る時間で得られる利点」が全く見えないのは、やはり、展望力の欠如からだろう。
未来思考になって10年後の形を目指すというのは難しい。
過去思考になってしまって、窮屈な堂々巡りから抜け出すのも難しい。
難しいと難しいの間に挟まる現在、溜息ばかりが湯船に溶けていった。
汚れた潤滑油を拭き取って、新しいのを差し込まなければならない。
具体すれば、1週間以上何もしない日々を過ごしたい。
そうすれば、頭のネジの調子は今よりは良いはずだ、多分。
自信の欠片など微塵もない今日、ぬたぬたとネジを回しつつ、投稿する。