奇妙な一致について。
人との繋がりは不可思議である。
私は私と相容れないことを悟り、「普通」になることを諦めた。
しかし、「普通」になることを諦めてから、共通する点を見出すような人がいることに気付いた。
諦めたから気付いたのか、元から知っていたことを再確認しただけなのか、定かではない。
この記事はその不可思議な一致を綴っている。
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目次
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1、Koさん「大事にしたい絶望がある」
Koさんと知り合ったのは、安曇野朝活である。
第一印象は、明るくハキハキ喋る人だった。
しかし、踏み込んで聞いてみると、中々のネガティブな人間だった。
Koさんは安曇野朝活をする前は、結構内向きな人だったらしい。
しかし、どうしても夢を語り合い、分かち合える会を開きたいと安曇野朝活を開いていた。
その熱い想いは、安曇野朝活のプロフィールで存分に出ている。
自転車で岡山県へ行ったり、福島県へ行ったりとアクティブな面もある。
しかし、そうしたアクティブな面とは逆の姿勢を貫いていた時期の話を聞いたことがある。
ネガティブに全力でいようとしていた時期があった、というのだ。
経緯は忘れたが、Koさんは少しでも幸せを感じたら、それは嘘ではないか?と考えていたらしい。
寝て少し楽になるのも許せず、寝る間を可能な限り削った。
食欲を満たすのも許せず、食べるのも必要最低限にした。
そうしたことをストイックにしていて、ある日、そうしたストイックな自分に満足していることに気付き、これも嘘ではないかとなった。
確か、そのようなことを言っていた。
そのネガティブ根性は、自己開発セミナーで参加した時も「お前ら、俺のネガティブを変えられるものなら変えてみやがれ!ほうら、できねーだろ!」という超上から目線だったらしい。
そういう話を朗らかにするKoさんと、哲学の話をしようと集まったことがある。
テーマは「絶望との付き合い方」だ。
1回しかできていないが、有り難いことに他の人間も3人ほど集まり、合わせて5人で語り合った。
その中で、私とKoさんはネガティブなことに対して前向きであり、他の3人はポジティブであった。
色々と話したが、その中で「大事にしたい絶望がある」という言葉が出た。
この「絶望」は他の人に分かる訳がない、私だけの「絶望」がある。
Koさんはこの言葉を甚く気に入っていた様子であった。
そして、私もこの言葉に共感を覚えていた。
しかし、どうも他の3人には今一つピンと来ていないようであった。
私のネガティブは、Koさんのような拒絶しなければならないというネガティブではない。
私は私を批判するべく、ネガティブでいこうとするものである。
本質で言えば、きっとKoさんとは違うのだ。
しかし、「大事にしたい絶望がある」という点において、私はKoさんと握手ができる。
誰のものでもない、私だけの「絶望」がある。
「大事にしたい絶望がある」、そのことがKoさんと私を繋いでいる。
2、Maさん「今、この瞬間に死んでも良い」
Maさんと初めて知り合ったのは、演劇の稽古見学の時である。
その時は顔を見る程度であったし、それ以上踏み込むこともなかった。
また、私が本格的に関わっていく中でも、周りをよく見てフォローする人、という印象であった。
最近知ったのだが、Maさんは私のことが嫌いだったようだ。
得体の知れないへらへら笑った私が、何も考えていないように感じていたようだ。
そんなこととは露知らずにいた私だが、劇団ぱすてるを立ち上げて、会話する機会が増えるとMaさんの闇がちらちらと見えてきた。
私はそれを「そういう考え方もあるもんな」と受け止め、流していた。
そうして、ある晩の劇団の飲み会で、Maさんはある意味で自分の全部を出した。
ガンガンと喋るMaさんが、ふと私についての考察を述べ始めた。
Maさん曰く、私は勉強ができるバカなのだそうだ。
どこか吹っ切れているな、とは感じていたが、話を聞けば聞く程に完全にぶっ飛んでいて、面白い。
Maさんは内に内に自分のテリトリーに行こうとしているが、私は外へ外へと自分のテリトリーが広げていっている。
ベクトルが全く違う人間だのだと、Maさんは言っていた。
ただ、とMaさんは続けてこう言った。
「お互いに振り切っているから、時たまに、一致する時がある」
その一致が「今、この瞬間に死んでも良い」とする姿勢だ。
誰かに殺されても、ふいと自殺してしまっても、死んでも良いやとする姿勢だ。
「今、この瞬間に死んでも良い」とするMaさんに私は心の底から同意した。
Maさんと過去を知れば知る程に、私の想像を軽く越えていく。
Maさんの分析が正しいかどうかは置いたとしても、やはり、私とは別の人間なのだ。
Maさんの闇と、私の変態さは違うものなのだ。
しかし、「今、この瞬間に死んでも良い」とする点において、Maさんと笑い合える。
辿った道筋は違うのに、辿り着いた結論の一致に歓喜する。
「今、この瞬間に死んでも良い」、この一致でMaさんと分かち合えるのだ。
3、Niさん「良質な人間でいよう」
Niさんとはそこそこ長い付き合いになる。
と言っても、イベントで顔を見る程度の仲であった。
Niさんと話した最初は、オープンマイクの時であった。
私が「「私」の境目はどこから?」という話をオープンマイクで話した。
何分、哲学的な話で、伝わったかどうかは分からない。
それでも、私は気持ちスッキリとしていた。
小休憩の最中に、Niさんから話しかけてくれた。
さっきの話は面白かった、と。
まさか話しかけられるとは考えていなかったので、私は嬉しくなったことを覚えている。
その後、ちょくちょく顔を合わせている内に、プライベートでもタイミングが合えば会うようになった。
回数はそれほど多くはないが、人付き合いを滅多にしない私にしてみれば、相当数会ったことになる。
そうして話してみると、Niさんの鋭い感性と観察眼に驚かされる。
知り合った人の人となりを直ぐに看破し、その分析も的を得ていて、私は唸るばかりだ。
私の私見に対しても、十分に受け止めて、しっかと答えてくれる。
私にとって、Niさんとの会話は至福である。
さて、最近、Niさんと長話をした。
その中で、「人間とは何か?」となった。
こういう話を何のてらいもなく話せるのが良い。
Niさんは「人それぞれ違う、その違いを認めたり、距離を取ったりしていこう」
自分の主観、思考だけでなく、身体の違和感を大事にする。
「しっくり来る矛盾」を突き詰めれば良いのではないか。
そして、そうした違い、矛盾に気付ける「良質な人間でいよう」と。
その通りだと感じた。
何も気付かずに通り過ぎずに、何かが変だ、どこか矛盾している、そうしたことに足を止めずして「良質な人間」に成れない。
Niさんは、私の歩調に合わせてくれているのかもしれない。
Niさんは、100年後も残る物が本物だとする人だ。
「今を楽しむ」私とは根本では違うのだろう。
しかし、「良質な人間でいよう」と言ったNiさんと私は友達でありたい。
違いを認め、矛盾に気付き、身体と思考を一致しようとする、「良質な人間」でいたい。
「良質な人間でいよう」、帰りにお互いにそう言い合って別れた。
4、私「謎だ、奇妙だ、不可思議だ」
Koさんと私は違う人間だ。
Maさんと私は違う人間だ。
Niさんと私は違う人間だ。
生きてきた道も、考えてきたことも、これからの生き方も、すべて違う。
ここに書いたことは私の主観で、彼ら彼女らとは違うかもしれない。
しかし、一致したのだ、間違いなく。
この奇妙な感覚は一体何なんだろうか?
言葉を尽くしても、ただ一致したとしか言えない。
私と言う人間を掘り下げれば掘り下げる程に、「普通」とはかけ離れ、彼ら彼女らから遠ざかっているはずなのに。
彼ら彼女らが会って話せば、きっと変な感じになるだろう。
Koさんと言動はMaさんはストレスになるかもしれない。
Niさんは他の2人を一歩引いて一定の距離を取ろうとするかもしれない。
相容れないかもしれない、と予感する。
私と言う人間を介さずに出会ったとしても、お互いに会ったことなどないように振る舞うような気がする。
そも、お互いに活動しているフィールドが重なることがないから出会うこともない。
謎だ、奇妙だ、不可思議だ。
これほど違う人間3人、私とも違う人間が3人いて、しかしその3人のそれぞれのある一点において、私は彼ら彼女らと一致する。
謎だ、奇妙だ、不可思議だ。
もしかして、もっと別の人間と話していたら、奇妙な一致はあるのだろうか?
あるのだろう、現に3人、一致している。
いや、むしろ、「完全に一致しない人間」を探す方が実は難しいのではないか?
結論はない。
ただ、考えは止めない。
その意を込めて、締めよう。
謎で奇妙で不可思議な他者と私の在り方の一致のその先へ。
以上だ。