「ネガティブな思考もユーモアにすれば良いのでは?」
急に私の中で合点がいった。
目にも耳にもしたようなフレーズなのに、天啓の稲妻が私の脳内で走った。
私は私の感じたまま、考えたままを言うことしかできない。
故にネガティブに感じたこと、考えたこともそのままで言うしかなかった。
私はそう言うしかなく、他に言葉がなかったのだ。
何年も同じ所を堂々巡り、いたちごっこを飽きて尚繰り返し、最早習性だろうと感じていた。
他に良い言葉があっただろう、と考えながらも、しかし、他に言い換えられないもどかしさ。
数ある私の問題の一つで、中々にしんどい問題だった。
「焼肉しゃぶしゃぶぶう」さんの挨拶に来てくれたことに対して、私の微妙な感情の発露をTwitterで呟いた。
当ブログでもそのままに書いた。
何となく、他に言い様があった気がしながら、他に言い様がないよな、とか考えていた。
結果、「焼肉しゃぶしゃぶぶう」さんに謝罪させてしまった。
嗚呼、謝らせたい訳じゃないのに、どうして言ってしまったのか。
当該記事を消すのはそれはそれで不誠実に感じて消すことも選べない。
どうしたものか、またやらかした。
しかし、数えるのも忘れたほどに何度も繰り返したからか、妙にフラットな精神状態であった。
天啓が来たのは、その時だ。
「ネガティブなこともチューニングする」は誰の言葉だったか?
お笑いのネタ、過去の赤裸々話、今までに見て聞いた言葉が瓦解して小さな欠片になって、私の喉元を通り抜けた。
今まで「ネガティブをポジティブにする」は違うと感じ考えていたが、ネガティブをネガティブのままにポジティブに昇華すれば良いのでは?と気付いたのだ。
ここに辿り着くのに随分と時間がかかった。
次はもう少し上手く言える気がする。
長年の問題の一つが一歩良くなったのは、素直に嬉しい。
ふと、今まで見て聞いたあらゆる正しい答えも、自身が真に納得するのは時間が要するのかもしれない。
頭ではその通りだと分かった気になって、その実、何も分かっていないことが度々ある。
今回の天啓も「一歩良くなった」とは感じるが、「完全に解決した」とは考えないのは、分かった気になってしまっているかもしれないからだ。
一歩進んで二歩下がる、彼の古き歌が口を衝いて出る。
ネガティブに感じたままで良いのだ、後ろ向きに考えたままで良いのだ。
その言葉を仕立て直しだけで良いのだ。
思考の転換というより、思考の組み換えのような気がする。
私はこれからもネガティブ方向にポジティブに行く。
その上で、ネガティブをネガティブのままに良い感じに仕立て直す。
できそうな感覚があるのは良好だ。
やるだけやってみて、後でまた考える。
いたちごっこも悪くない、そういう風に考えられる日が来るとは露ほどにも考えてなかった。
私らしく、何年やっても躓く「らしさ」に今日も挑む。