ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

表現は誰かを傷付ける事実から逃げてはいけない、表現する人ならば。

誰も傷付けない表現について、一考してみる。

 

 

漫画「宇崎ちゃんは遊びたい」のヒロインが献血ポスターに起用されたら、胸が大きいキャラクターであることが女性の性的搾取と非難されて騒動になったのは、はて今年だったか?

「宇崎ちゃんは遊びたい」の新刊をしげしげと読みながら、ふと思い出した。

新刊ではいよいよ大きく動き出しそうな感じになってきて、早く末永く爆散しろ、と尊さで頭が弾け飛んでいるが、今回と関係ないので置いておく。

 

正確に言えば「誰も傷付けない表現」において、上記の「宇崎ちゃんは遊びたい」も表現物であるから、関係ないというのは間違いだ。

しかし、今回の私の一考とはかけ離れる。

つまり、「誰も傷付かない表現」をどう捉えるべきか、という個人的な考えである。

 

宇崎ちゃんのポスター、ストッキングのイラスト、高校生の美術作品など、「女性の性的搾取」が問題として挙げられていた。

また、オリンピックの演出家が過去にドイツのホロコーストをネタにして退任した。

誰かが傷付く表現というのは確かにあるのだろうな、と傍観者的な視点でぼんやり考えていた。

 

傷付けられた、と主張する方の意見も一理あるようにも感じる。

表現された物を不快に感じると言われれば、そういう一面もあるよな、とは感じるからだ。

気にする人は気にする、何を表現してもそういうものだろう。

 

「誰も傷付かない漫画」と題された、コマ割りだけ描かれた白紙の漫画がTwitterで投稿されたが、これも批判された。

これは「言葉は言葉の意味より、誰が発したかが大事」と似ているだろう。

制作者さんは皮肉で提示しているので、挑発された、傷付けられたと感じる人が一定数いるのはむしろ自然な流れではなかろうか?

 

同時に何も描かれていない漫画、ただのコマ割りであっても、「表現」として世に提示すれば、誰かは傷付く結果を示唆している。

これは表現をしようと考えている人間にとっては肝に銘じなければならないのではないか。

即ち、世に「表現」として出すということは、その「表現」を見た人の何人かは傷付くという事実だ。

 

今は「表現」の範疇はアート、漫画やイラストなどの二次作品と限定的だ。

しかし、実際は音楽や小説、デザイン物や民芸品、工芸品など「表現」は世界を埋め尽くしている。

「これが私の表現だ」と言ってしまえば、それはその人の「表現」になるのだ。

 

その表現で誰かは必ず傷付く。

私の今座っている椅子はシンプルで素敵だが、「固い座が私を遠ざけているように感じた」という人が居れば、この椅子も「傷付けた表現物」となるのだ。

何かを作ろうとするエネルギーは、誰かを傷付けてしまう攻撃性をはらんでいる。

 

この何かを作ろうとするエネルギーがなければ、人間の社会は発展しなかった。

空に飛行機が飛ぶことも、コンクリートのビルが立ち並ぶこともなかっただろう。

表現しようとするのは生きる上で必要でもある。

 

しかし、人間の種の多様性は様々な思考思想に行き着いた。

鉄の棺桶と恐れ戦く人もいて、立ち並ぶビルが墓石に見える人もいる。

傷付く感性が一定数いるのもまた必然なのだ。

 

「傷付き論」と題して、以前も考察した。

 

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その上で、「誰も傷付かない表現」について書く。

 

まず、「何を表現しても誰かは傷付く」という事実を受け止める。

世界が私一人、あなた一人であれば、もしかしたら傷付かないかもしれない。

しかし、世界は小さくも広く、作り続ければいずれ公の場で「表現」するだろう。

 

「表現」をすれば、傷付く人がいる。

そのことをまず認識しないといけない。

だが忘れてはいけないのが、「表現」によって救われる人もいる。

 

グロテスクな表現で、「こういうことを思っても良いんだ」と感じる人もいるかもしれない。

誰かを殺した表現で、「私の気持ちを代弁してくれた」と感じる人もいるかもしれない。

翻って、宇崎ちゃんのポスターも「大きい胸であることが恥ずかしかったけど、公共のポスターで堂々と表現されているのを見て、自信が持てた」と感じる人もいるかもしれない。

 

人間の種の多様性によって、表現で傷付く人もいれば、表現で救われる人もいる。

これもまた必然で、表現の必要とする理由の一つだ。

だから、「何を表現しても傷付く人はいる」事実と受け止めると同時に「何かを表現すれば救われる人がいる」事実もしっかりと認識するのが肝要だ。

 

「これで傷付く人はいないだろう」という考えは捨てる。

最初に「これは誰かを傷付ける」という視点から物を考える。

ただ「これは誰かを傷付ける」を大真面目に考えると、誰かを傷付ける怖さで表現ができなくなる。

 

まともな神経なら当然で、最初から「誰も彼も傷付けば良い」と言えるほど強い人間は希少で、最初からそう言えるのはある種の才能だ。

ここで一つの「表現」を辞める人が出て、「仕事」として別の「表現」にシフトする人もいるだろう。

ここでの「表現」は、「仕事」として割り切ってしまうことで「誰かを傷付ける」事実から離れる、「仕事」としてワンクッションで和らげて「表現」による痛みを分散する。

 

矢面に立ってする、最前線での「仕事」なら「表現」による「誰かを傷付ける」のも目の当たりするだろう。

真っ正面から「誰かを傷付ける」という事実を受け止められる人と、間接的に、または分散することで受け止める人、それぞれ違う。

いずれにしても、世に出せば傷付ける、という認識を持つ。

 

表現の重みを受け止めた上で、自分の欲求、衝動があるか、である。

業が深いというべきか、「誰かを傷付ける」事実を知って尚「それでも表現したい」という欲求や衝動がある。

放っておいても、作る人間は誰にも何も言われなくても作り続けるのだ。

 

どういう表現をするかによって「それでも表現したい」の中身も変わるかもしれない。

「誰も彼も傷付けてしまえ」と表現する人もいるだろうし、「誰も傷付かないように、誰もが救われるように」と願いながら表現する人もいるだろう。

しかし、ここで大事なのは、自分も傷付く、「それでも」を問い続けるの2点だ。

 

「表現すれば誰かが傷付く」の「誰か」は「自分」も含まれている。

傷付けたくて「表現」しているのではなく、欲求や衝動でただ表現を「表現」としているだけだが、それによって自分も傷付く。

「それでも表現する」に至るには、自分の傷に気付けるようになって欲しい。

 

そして、「それでも」と表現し続けていても、時代は変わる。

昔は良かったかもしれないが、今は違うというのは往々にしてある。

常に「それでも」を問い続ける姿勢は必要だろう。

 

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ここまで講釈垂れてきたが、「表現」する人は勝手に作る。

私も一度は「誰かを傷付ける責任」を取れないと話して一度表現から離れた。

それでも今は演劇で「表現」の場にいるのだから、いやはや業が深い。

 

どんな表現も誰かを傷付けるが、同時に誰かを救うのも事実だ。

表現の業の深さをしっかりと認識して、それでも尚、表現するならば自由にいこう。

私は私であるために表現をしていく、きっと誰かを傷付けるし自分も傷付くけれども。

 

表現は誰かを傷付ける事実から逃げてはいけない、表現する人ならば。