考えなければならないことがある。
私が演劇で、芝居で見たいものは何であろうか?
その答えを出さなければならない。
演出は最初のお客さんであると聞いているし、今回の公演では私の観たいものをやると宣言している。
競馬でいうかかり気味であれこれと考えたが、ある人に指摘される 。
あなたの観たい演劇とは何か?
勢いで「私の観たい演劇をする」と宣言していたが、改めて考えると漠然としていた。
私の観たいものは、「誰か一人でも刺さる」芝居が観たい。
その「誰か一人」は私なのだが、私が「刺さる」ものとは何であろうか?
「心に刺さる」とは「感動する、共感する」、「傷付いた」と強い衝撃を受けるものだ。
となると、私は感動したり、共感したり、傷付くほどの強い衝撃を受けたいのだ。
驚きたいのかもしれない、捻くれた見方ではなく素直に観たいのだ 。
しかし、毎回驚くのは難しい。
驚くとは常に受動なのだ。
自分の思惑の外からくるから驚くのであって、自分の想定内では驚けない。
では、驚けなければ刺さらないのか、となると違うだろう。
例えば私は漫画を1000冊以上読んでいるので、漫画の展開であればある程度予想できる 。
しかし予想通りの展開であっても、盛り上がりのシーンで転げ回って悶える場合もある。
実際には、そうなるだろう、と第三者が考えていても、物語の進行ではその瞬間まで分からない。
その時に、登場人物の想いは一つの台詞として、行動として発露される。
私はそういう心の発露が観たいのだ。
驚くにしろ、心の発露にしろ、私は受動である。
観せる側、役者が能動、躍動する芝居が観たい。
私は本物の人間が観たいのだ。
では、何を以て「本物の人間」なのだろうか?
演技が上手いとか下手とかではなく、物語が面白い詰まらないでもない。
舞台で生きるとか、エンターテイメントで楽しませるとかでもない 。
舞台に立つ人間が観客に表現する。
私は隠れるものがない舞台の上で何かを表現しようとするその答えを観たい。
私は驚きたいし、表現によって思わず出た心の発露が観たい。
やはり漠然としている。
そも、「本物の人間」というハードルは高くはないだろうか?
言語化できない部分を劇団員と話して煮詰めておこうか。
もっと具体性のある明確な言葉にできるように考えていく。
一先ずは、ここまで。