怒りを取っ掛かりに考えます。
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目次
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1、怒れないことに戸惑う。
書きたいことが積もり積もって、私を責め立てている気がする。
東京ディズニーシーや、静岡県久能山東照宮の話。
干支の動物連想の話、幸せや思考の話、ナナシの0の話、小説構想…
書かずに積もっていくそうした出来事が、うっすらと埃を被り、空気を淀ませている蔵のような気まずさがある。
そうしたことに対して、申し訳ない、情けない、惨めに感じる感情が沸き起こる。
ただ、腹立たしい、こんちくしょう、苛立ちはそれほどない。
昔から、怒りという感情が薄いのだ。
いや、怒れない訳ではない。
過去に「あれは怒っていたのかもしれない」と思うことが、幾つかあるからだ。
でも、そうした出来事も、指折り数える位で、明確な「怒り」の感情は普段は持ち合わせていない。
財布の中にあることがそんなにない50円玉のような、持ち合わせのなさだ。
「怒り」が大気圏の空気並みに薄い私は、怒りの在り方に興味がある。
コンビニエンスストアーで「怒り」をテーマにした雑誌を見つけた。
何となしに、買ってみて、読んでみた。
折角なので、読んだことをせっせとまとめてみた。
2、怒りを学ぶ。
怒りのメカニズムで、五感でキャッチした情報は、大脳新皮質を経由して大脳辺縁系である扁桃体に送られる、らしい。
形がアーモンド=扁桃に似ていること事から、扁桃体と呼ばれるとのこと。
この扁桃体で一次情報を処理して、海馬や帯状回などの、さまざまな部位にばらまかれ、次の行動を判断するらしい。
「怒り」を起こすのは、つまりはこの扁桃体が原因のようだ。
扁桃体からの情報によって、交感神経が優位になった状態は、fight or fligft`「戦うか逃げるか反応」と言われる戦闘状態になるらしい。
それから、「すくみ反応」と言う、逃げることも戦うこともできずにその場でフリーズすることらしい。
つまり…怒りの反応として…
1.闘う(種の保存のために敵と闘う)
2.逃げる(その場から立ち去って、ストレスや危険を回避する)
3.すくむ(その場で動かなくなる)
があると言うことだ。
それで、怒りを抑制する働きとして、脳の下垂体からホルモンを分泌、腎臓の上にある副腎皮質にコルチゾールを出す…?
一方、交感神経の働きで、同じ副腎でも副腎髄質に指令が届くと、アドレナリンやノルアドレナリンと言ったホルモン…??
ええーと、なんだかんだで、怒りが鎮まるのに数秒から数十秒と言う訳だ!
…こう、ホルモンの名前とかさっぱり分からないわ…身体一つでかなり複雑なことが起きているんだな、というニワカな認識。
更に脳が肥大化したヒト特有の知的抑制ルートなるものが存在するらしい。
前頭野の下部、目の上辺りの眼窩前頭皮質が活性化すると、扁桃体の働きを直接取り押さえてくれるようだ。
この眼窩前頭皮質の中でも、右のこみかみの部分が、「堪忍袋」に相当するらしい。
ほう、肚の中だと考えていたので、右のこみかみとは…と言うことは、「堪忍袋の緒が切れた」は右のこみかみの血管がプッツン…いかん、怖いことを想像してしまった。
それから、怒りの抑制ルートに脳内物質由来のシステムもあって。
モノミアン系?セロトニン、ドーパンミンが分泌…オキシトシン?…分からん。
つまり…前向きな気持ちやリラックスすると、怒りが抑制…?らしい。
分かることは、これだけ人間の体内では怒りを抑制するシステムが構築されているということだ。
怒りを鎮める方法がそれだけ多岐に渡るということは、ずっと怒りっ放しは身体に悪いのだろう。
確かに、ずっとカッカしているのは疲れるだろうな、とは感じる。
それでこの雑誌は、「怒り」のコントロールについて記述している。
しかし、私に関しては冒頭で述べたように、怒りがぺらっぺらだ。
いっそ怒れないことが不安なぐらいで、コントロールと言われても当惑してしまう。
怒りのコントロールについては各自どうにかしてもらうとして、「アンガーマネジメント」の項での怒りについて記述する。
「怒り」という感情は第二次感情と捉えられている。
自分が傷付けられた、嫌な出来事があった等、ある出来事に遭遇すると、その出来事に意味付けをして、怒りが生じる、とのこと。
心理学者のアドラー先生によれば、人に対して怒る人は、怒りたいから怒る、と言っていたのを思い出す。
店で水をかけられて怒る人もいれば、笑顔で取りなす人もいる。
怒りたいから怒ると考えると、確かに私はそこまで怒りたい事象はない気がする。
何せ自分のことで手一杯、他に回せる余分な感情がない。
逆に言えば、他人への興味が風で舞う砂塵が如く、吹けば飛ぶ程度しかない。
3重丸の概念という方法では、自分を中心に3重の円を描き、最も内側から「許せるゾーン」、次が「まあ許せるゾーン」、最も外側が「許せないゾーン」となる。
アンガーマネジメントで言えば、「まあ許せるゾーン」を増やそうということ。
多様化した価値観、白黒だけでは判断できないことなど山ほどある。
ここでも、私はかなり「まあ許せるゾーン」が広いような気がする。
大抵のことは「それはそれでアリじゃね?」の精神であり、この精神は「在ったら在るで良いけれど、無ければ無いで構わない」とする思考が私の根底にある。
「広いような気がする」と断言できないのは、この思考は良くないのではないか?と今年に入って考えるに至ったためだ。
つまり、許す許さない以前に他者に興味が無いだけではないのか?ということだ。
心が広いとはまた違う、虚無感に近い諦念が私の心中にある気がする。
その諦念は諦念で良しとしているのも、興味の無さと関連している、かもしれない。
3、怒りを探る。
__上記の文章を書いたのが2017年7月8日とあった。
ほぼ、3年前である。
随分と漬け込んでいる。
この3年間、怒りらしい怒りをやはり持ち合わせていない。
演劇関係で対人間とのコミュニケーションは増えたが、怒りまではいかない。
果たして、私は怒れないのか?
上記で3つの怒りの状態が記してあった。
その3つの状態に沿って、自己分析をしてみる。
仮想敵を仮定してみる。
仮想敵は私の邪魔をする存在だ。
私の場合の仮想敵には、「嫌いな父親」、「相性の悪い職場のおばさん」、「劇団ぱすてる関係者」と3つとする。
「嫌いな父親」に対してなら、嫌悪感と共に闘いを挑む。
実際、私が怒鳴ったのは父親にのみである。
しかし、私の内心深くにある嫌悪感は普段はスルーしているので、父から不機嫌をぶつけられてもやり返すことはない。
やり返さないことは「逃げる」ことなのか?
悪化する現実から回避しようとしている、と考えれば、逃げている。
項目を見ても、ストレスと危険の回避とある。
父にやり返せば、一時的な発散になるだろうが、その後の生活がストレスが増す。
母との関係もあるから、怒りをぶつけるのは得策ではないのだ。
「相性の悪い職場のおばさん」では、納得できないことは聞く場合もあるが、基本的にはやり合わない。
コミュニケーションを取るのが苦手というのもあるが、怒鳴られるとすくんだことがある。
予想外なことに身体が萎縮してしまった。
相手とやり合うより、自分自身の役立たず感に怒りの矛先を向けた方が効率が良い。
ここでも、逃げることを選択している。
自分のキャパシティを守る行動を選んでいるようだ。
「劇団ぱすてる関係者」だと、「許せる」又は「まあ許せるゾーン」に区分される。
そも、怒りの向かう先は、自分自身だ。
自分自身に向かって怒り、怒りを消化している。
「嫌いな父親」や「相性の悪い職場のおばさん」は、基本的に私に対して怒っている。
私自身は受動的なのだ。
「嫌いな父親」に対しては根深いものがあるが、その根深さの発端は、父親からの怒りである。
つまり、私自身は怒りはなく、他者が怒っているのだ。
傷付けられたのか、許せないのか、他者は怒り狂う。
私は傷付いても、何故傷付いたのか、考える。
私は許せなくても、許さないとだけ決めて、口を閉ざす。
私自身が怒りを育ててないのだ。
私という自意識が強い故に、私に対しての怒りはある。
しかし、そのエネルギーは自家発電で終わる。
ストレスからは逃げ、自分のペース、自分自身のみの事柄にしようとしている。
他者を自分のテリトリーに入れないようにしている。
良くも悪くも、それが私を怒らせない。
他者に興味がない、というより、自分自身に興味が優先されているのかもしれない。
4、怒りの底が尽きるまで。
長々と書いたが、結句、何か得たのか分からない。
確たるものが私にないから。
多くの人は怒りを抑えたいか、無くしたいと考える。
しかし、怒りは自身を動かすエネルギーになる。
私自身に対しての私の怒りは、私を追求するエネルギーだ。
私は私に傷付けられてるし、許してはならないと考えているから。
怒りを呑み干せ。
パッと思い付いたことを書く。
私自身に向けての言葉だ。
ただ怒りに振り回される人も、怒りのエネルギーの肚の底まで呑み尽くしてしまえば、怒りについて悩むことは減るような予感が私にはある。
『寂しさを飼い慣らせ。
怒りを呑み干せ。
負の感情を思いのままに』
私の新たなキャッチコピーが生まれた。
大変に気分が良い。
くったくたになるまで使い倒してやろう。
私を責め立てていたことは、もう忘れた。