丸まる背中に気付いて、頭を上に引っ張り上げる。
背中付近の強張った筋肉が伸びて、少し痛む。
じんわりとした熱を背中に感じながら、腹に力を入れる。
「結婚式の加害性」がTwitterで話題になっている。
詳しくは全く知らないが、結婚式をするという情報で傷付く人はいるとの旨と解している。
しかし、こうして話題に上がる前に「結婚式をするという情報で傷付く人」はいた。
「バームクーヘンエンド」という結婚式にまつわる当時好きだった人で今も内心好きな人が別の人と結婚してしまい、結婚式の引き出物でのバームクーヘンを持ち帰る描写で悲しさを表現している。
幸せに浸る人もいれば、苦々しく感じる人もいるのは当たり前だ。
ハレの日だから殊更にクローズアップされていないだけで、大昔から「結婚式の加害性」は存在した。
SNSの発展でそうした傷付いてしまう人の声が不特定多数の人に届くようになった。
傷付いた人が見付かり易くなった点は良くなったが、反面、善良な人々が萎縮してしまっている。
「もうすぐ結婚式があるけど、結婚式について言わない方がいい?」というのを見かけて、その善良さに私が悲しくなる。
配慮というのはどこまですれば正解なのだろうか?
私が演劇をしていると「こんな時期に演劇をするなんて!」という声に配慮して、劇団の活動について配慮する。
必要な措置なのは分かるし、それに準ずるのは当然だと感じる。
しかし、この配慮はいつまでで、どこまでなのか、見通しが立てない。
際限のない「配慮」は究極が「何もやるな」となるのだが、配慮を求める側は「そこまで言っていない」と言うだろう。
本当はこちら側、何かをする側が「こう言う人もいるかもしれない」と相手を慮るから意味があるのであって、相手が「それは配慮に欠ける」と訴えるのは一種の暴力だ。
第一に「結婚式の加害性」は話題にするなら「結婚式の救済」についても話題に上げるべきだろう。
結婚式という一区切りがあるから前に進める人もいる、加害性ばかりであるなら、とっくの昔に廃れて良いものだ。
悪しき面だけ目立つのは、それだけドラマチックだからだろう。
皆が気持ちよく過ごせるように全体を考えることは良い。
ただ、すべての傷付くことを配慮することはできない。
傷付けてしまうが、祝福もして欲しい、矛盾したグロテスクな願いが私にはある。
どこかでどうしても折り合いをつけないといけない。
折り合いをつけないと、何もできないし、誰も幸せにならない。
折り合いをつけるとは人間社会で生きる上で必要なスキルなのかもしれない。
また、丸まる背中に気付いて、頭を上に引っ張り上げる。
背中付近の強張った筋肉が伸びて、少し痛む。
折り合いをつけねば、と考えながら、パソコンを叩く6月の夜更け 。