過去を記事を振り返って。
この記事で9記事目、時期は2016年9月だからおよそ5年前だ。
5年もの月日が流れているのが驚きで、ちょっとしみじみしてしまった。
さて、今回は「不便さの許容」だ。
しげしげ読むと、成る程、昔の私は良いことを言っている。
そも、今の時代、便利過ぎるきらいがあります。
(中略)
より便利な社会を目指すことは、文明の発展に大きく寄与していることは間違いないでしょう。
ただ、それによって「昔だったら」許容できたことが我慢ならなくなったのは、より便利になった弊害ではないでしょうか?
(中略)
もちろん、今の時代に自動車をなくせ、スマートフォンを持つな、ということではなく。
ただ、自動車がなければ何処にも行けない、訳ではなく。
ただ、スマートフォンがなければ誰とも繋がれない、事も無く。
他のことに目を向ければ、事足りるだけの話です。
要はバランスの問題です。
便利なことを許容するあまり、いざ不便になった時に。
「どうしてこんな嫌な思いをしなくちゃいけないんだ!」
と誰も悪くない怒りが湧く訳です。
より便利になるためには必要な怒りですが、それは文化の発展に向かえばの話です。
八つ当たりになれば、意味の無いエネルギーの発露になりかねません。
ならば、不便なことを許容すれば、現状で特に困ることなんて然程ありません。
文明は停滞するかもしれませんが、そんなに怒ることでもないことに気付けるはずです。
この先の未来でも私が想像するより凄い技術は発明されるでしょう。
その人たちのバイタリティに感服しつつも、凡人たる私はただその利益を許容します。
されど、許容できなかったとしても、それは私のバイタリティのなさ故なので、同時に不利益も許容することはある種の責務とも言えます。
文句だけ言っていても、世の中何一つ変わりはしない、当たり前のことです。
今の私には耳が痛い。
2021年9月現在、新型コロナウィルスの大流行によって、私の活動は大分制限されている。
色々と動こうとしてもその制限で結構やりたいことができずにいる。
特に演劇に関して言えば、悶々としている部分が大きい。
視野が狭くなっているのか、他に目を向けられていないのも大きいのかもしれない。
新型コロナウィルスの影響でできていた利便が不便になったのだと改めて気付く。
許容できなかったのは、私のバイタリティのなさ故か。
いや、私の環境の変化も大きいだろう。
今は人の輪に入っているから、その影響もあるのかもしれない。
文句だけ言っても、世の中何一つ変わらない、どうにかしたいなら何かアクションを起こすしかない。
事足りないと感じてしまっているから、5年前の私と今の私の感じ方は違うのかもしれない。
より良くしようとしたら何か行動をする、バイタリティの発生とは自分の欲求が満たしたいという純度の問題なのかもしれない。
不便さの許容は心の平穏に必要だが、より良さへの刺激も心の潤いに必要なのだろう。
人間をやって34年だが、未だに心の扱いのデリケートさに顔を覆うばかりだ。
鈍感さと鋭感さのバランス、刺激と平穏との兼ね合い、私の在り方とその問いかけ、考えれば増える私の自意識、心の問題が増えていくばかりか。
この不便な世界で今日も夢を見る。