昔の自分が書いた記事を読んでいると、成る程ね、と膝を打つ。
そういうようなことばかり考えていた。
今回も昔の自分に同意しながら読んだ。
自分の中で確からしいことがない人は、他者のぬくもりを求めがちという弁だ。
私は自分自身さえ疑う猜疑心の固まり、何一つ確からしいと言えない存在だが、そういう不確かな「私」の存在の確からしさに執着しているから、他者のぬくもりが入り込む余地がない。
また、不確かさ、曖昧さ自体を許容しているので、不確かであることに不安を覚えないのもある。
1年前の私も「寂しさを飼い馴らせ」と言っている。
寂しさとは「すっぽりと抜け落ちた」何かを別の物で代用しようとしている行為だとしていた。
私は寂しさを感じ難い人間で、「寂しさ」の大元である「すっぽり抜け落ちる」何かが1つしかない。
私には気になる人がいる訳だが、その人のぬくもりが欲しい訳ではない。
どちらかと言えば、相手のぬくもりに対して忌避感が強い。
手を握ることで相手を壊してしまうのではないか、という恐怖心が強い。
恋(便宜上)を今までしたことがないからよく分からなかったが、どうやら私はぬくもりが欲しい人ではなく、ぬくもりに怯える人なのだ。
その辺の人とフリーハグをしよう、となれば私は誰でもハグできる。
しかし、それはぬくもりとハグを分け、ハグの行為自体を楽しむ私とぬくもりに忌避する私を分けているからだろう。
私は寂しくてもその寂しさを許容する、つまり一人でどうにかする方法は長けている。
誰かが私の輪に入ってくる前提での寂しさの扱いに、私は困惑するのかもしれない。
予防線ばかり張ることや保険をかけることばかり巧みになって、他者との駆け引きが点で駄目なのは愛嬌というべきか、怠惰の極みというべきか。
私一人なら、そう、私ひとりならきっと悩むようなことは何一つないのだ。
寂しさを飼い馴らせば良いし、確からしいことに執着すれば良い。
人間の関係の中にいるから私は悩むのだろう。
一先ず、これで良し。
過去の私のバトンを受けて、次の私に向けて繋ごうか。