クリスマスも脚本を書いていた。
頼まれていた読み合わせ用の脚本だ。
さくさくと書いて、さくとデータを送った。
ふと、面白いものを書くことの難しさを考える。
私は面白いと感じて、考えて、書いている。
私の主観において間違いなく面白いものを書いている。
しかし、それは私の主観においてであり、客観して考えると分からない。
他の人にとっては詰まらないものかもしれない。
書きたいことを書き散らしているだけだから、洗練されていない。
ただ、私はそれで良いのではないだろうか、と考える。
私に洗練さは備わっていないので、磨きようがないのだ。
多分、「これが正解」、というものを見たとしても、飲み込めない。
既成の脚本に私が演出したとしても。
私の脚本に外部の演出家が演出したとしても。
私は私が感じる、考える面白いことしかできないような気がする。
そう言う意味で既成の脚本で演劇をするとしても、外部に演出を頼むにしても、私は困らない。
その時々の面白いに寄り添うだけだからだ。
それはある意味で不誠実なことだろう、相手と一線引いて好き勝手すると宣言しているのだから。
悩む振りしても仕方ないので、難しいな、と言いながら面白いことをする。
次へ、次へ、次の面白いへ。
後から後から面白いがあるのが悪い、責任転嫁する。
私は面白いと感じて、考えて、書いている。
さて、私の主観において間違いなく面白いものを書いていこうか。