「何が面白いのか」が副主宰とズレている。
私の楽しみ方と副主宰の楽しみ方がどうも違うというのが最近の悩みだ。
私の書く脚本の楽しいと副主宰の楽しいがどうにも食い違っているからだ。
副主宰の弁は分かるようで今一つ腑に落ちない。
単純に「私の好みではない、嫌い、詰まらない」だったら、「あなたの好みではなかったのね」で済ませられる。
しかし、「パッケージは面白いが、もう少し工夫が必要」と言われると「具体的にどういう工夫が必要なのだろうか?」と考える。
その具体例が「主人公以外の情報が多い」と言われて「確かに情報が多いかもしれない」と削ろうと考える。
ここまでは何となく飲み込めるのだが、聞いているとそれだけではない様子なのだ。
「何か変えて欲しいと伝えると器用に変えるが、壁にぶつかったら悩んで欲しい」とか言っていた。
いや、さらっと直せて面白くなればそれで良いのではないか?
私の拘りなど面白いの前では小さな拘りでしかない。
絶対に譲れない部分もあるが、絶対に譲れない部分はそれは押し通すだけの問題なので、変えられるなら変えてしまった方が早いではないのか?
私は「詰まらない」と切り捨ててくれた方が分かり易いし、飲み込める。
何故なら「詰まらない」と切り捨てるに値する部分が明確に見えるからだ。
私自身も受け止められるから、率直に「クソ詰まらない」と言って欲しい。
しかし、どうも「面白い」と感じる部分がある。
問題はその「面白い」が私の「面白い」とズレていることだ。
この問題の最大のポイントは「お互いに「面白い」点では合っているのに、何がズレているのかが言語化、共有できていない」点だ。
まつもと演劇祭の脚本の書き直しの話をその談義の時に振った。
副主宰の指摘の元、私が書き直した物を演出に見せたら変な顔をした記憶だ。
その記憶を話したら「だから俺は正しかったってことだろ?」と返された。
かなり驚いた、私の記憶の演出は私の脚本の良さが無くなってしまったと言っていて、「お互いに半分こに成れば丁度良いのにね!」と笑って(腹の中ではどうだったかは知らないが)言っていたのだ。
私の面白さと副主宰の主張が上手く折り合いがつけば良い、という話でもあるが、私の面白さが筋にある訳でもないことも含まれていると考えているのだ。
その記憶でまさか「自分の主張が正しかった」と言われるとは思わなかった。
感覚のズレ、と言うしかない。
こうなるとどうすれば良いのかサッパリとなる。
彼はどうももっと面白くしたい、と考えているようだが、「もっと面白くする」のピントが私と副主宰とで合っていない。
最終的な結論は似たり寄ったりとなるのがまた面倒なところだ。
結論も全く違うのであれば、相手と私は違うと割り切れるのだが、結論が同じようなものになると、何がズレているのか考えざる得ない。
副主宰は理論派なので、理屈で話せば副主宰の方が理に適っているのだが、やはり納得が難しい。
私の考える面白いをただただ書き連ねているのだが、何がそんなに引っ掛かるのか?
私は煮え切らないそうした態度が気に食わない。
「お前の脚本で演劇を打ちたくない」であれば、それはそれで飲み込めるのに、そういう訳でもないようなのだ。
私の脚本ではやりたくない、と表明してくれたら、私は納得できる。
私は脚本を書きたい人間だが、それで演劇がしたくないのであれば、仕方ない。
既存の脚本を取り寄せて、演劇をすれば良いだけだ。
そういうのが副主宰には「器用」に見えるのだろうか?
面白い物を作るのに私の拘りが邪魔なら、そう言ってくれたら良いのに。
互いに感性が違う故の、悩みだ。
私の中で「面白い」を煮詰める必要があるかもしれない。
即ち、言語化や共有化できる「面白い」だ。
そこら辺をちょっと私なりに頑張ろう、と考えてはいる。
ぐずぐずと煮え切らない副主宰に苛立つのは、私の載量の狭さ故だろう。