小雨降る木曜日、私の気分はルンルンだ。
春の陽気に当てられてやる気は上向いている。
私は幸せを愛する男、実に阿呆のように前向きだ。
窓の外の1mmより小さな粒の雨は音もない。
ふと、雨はどこから「雨」なのだろうか?
この「雨」の境はどこからなのだろうか?
「雨」は上空の水蒸気が高所で凝結し、水滴となって落ちてくるものだ。
「上空の水蒸気」とは「雲」のことなので「雲が水滴となって落ちる」現象を差す。
そして、総体として「雲から落ちる水滴」すべてが「雨」である。
「雨」の境目として考察するに私が気になったのは2点ある。
1つは高所から地上まで落ちてくる高低差間のどこからが雨とするのか。
2つは水滴の総量がいくつから雨とするのか。
まず、凝結して水滴になるのであれば、水蒸気から水滴になった時点で「雨」なのか。
単に凝結して水滴になることを「雨」と呼称するならば、風呂場の天井に張り付いた湯気の水滴も「雨」となる。
しかし、天井に張り付いた水滴は「雨」というよりは「水滴」のまま呼ぶ。
ガラスのコップに付く水滴も「雨」なのか、と聞かれたら違うような気がする。
「雨」にとって重要なのは、上から落ちてくることと推察した。
「雨」は「雲から落ちる水滴」を差しているが、「空から落ちる水滴」でも「雨」の呼称は使うだろう。
狐の嫁入りは空が晴れているのに雨が降ることを差しているが、「雲」が「空」に変えても「雨」と認識される。
ならば、より重要なのは「落ちてくる水滴」の部分だろう。
こう考えると「風呂場の天井から落ちる水滴」も「雲」や「空」と同じであるので、風呂場の天井から落ちてくる水滴も「雨」だ。
私が雨を認識するのは、私の肌に触れた時、土の濡れた匂いをした時、雨音を聞いた時だ。
これらは地上にある物体(私の身体、地表等)に衝突したことによって発生する。
水滴が落ちた結末、衝突によって雨を認識する。
衝突以外に雨を認識するのは、目視になる。
この目視が「雨」の境を定められるならば、水滴が落ち始めた瞬間だろう。
風呂場の天井に張り付いてたのを凝視すれば、天井から水滴が完全に切り離された瞬間が「水滴」と「雨」の境目だ。
では、上空の水滴はいつ落ちてくるのか。
雨の成因について書かれたサイトがあったので参考にする。
冷たい雨は上空で氷晶が大きくなって上昇気流の速さより落下速度が上回ると落下する。
そして、氷晶が途中で溶けて水滴になれば、雨となる。
この氷晶のまま地表まで落ちてくると雪となる。
暖かい雨の場合は雲粒同士が激しい上昇気流で直接ぶつかって雨粒の大きさに成長する。
また、海塩粒子のように水滴を吸収し易い凝結核があると直接雨粒になる。
いずれにしても、上昇気流の速さより落下速度が上回って落下する。
冷たい雨の場合は、落下途中で氷から雨に変わっている。
雪は溶けずに地表まで落ちてくるが、地表に落ちてくるまでの間に溶けてしまえば雨なのだ。
「氷晶」や「氷」ではなく、「水滴」であることが「雨」には重要だ。
例えば如雨露に水を溜めて、小さな穴の空いた蓮口から水を出すとすれば、雨なのか?
科学の範囲でいうと、氷晶の元となる物質があるから「雨」なのかもしれない。
しかし、雨は森や土へ、川と流れ、海へいき、蒸発した水蒸気が雲となって、と循環する。
口に含む水と雨は同じと私は考える。
大事なのは「落ちる水滴」であること。
氷晶ならば「雪」や「ヒョウ」であり、落ちなければ「水滴」なのだ。
水滴が落ち始めた瞬間、上から下に移動した時が「雨」の境目だ。
この定義で考えると、総量としてまとまってなくても、例え一粒でも「落ちる水滴」は「雨」だ。
外を歩いていて一粒額に当たれば(雨だろうか?)と予想するだろう。
私が雨を認識するより「雨」は上空にある。
私は雨が地表に衝突して初めて「雨」を認識する。
私が「雨」を知るには衝突しかない。
遥か上空で「雨」は生まれている。
水滴が雲の中で集まり、やがて上昇気流に逆らって、落ちてくる。
私が雨の誕生を知るのは、地上に衝突した瞬間だ。
小雨降る木曜日、私の気分はルンルンだ。
春の陽気に当てられてやる気は上向いている。
実に阿呆な私の上で、氷の粒は雨へと変わっているのだろう。