2023年3月25日土曜日、松本市の信濃ギャラリーで劇団タヌキ王国の『死ンデ、イル。』を鑑賞した。
脚本は蓬莱竜太さん(モダンスイマーズ)、演出は三井淳志さん(劇団タヌキ王国)だ。
私は13時からの1ステージ目を観てきた。
ネタバレ含む。
あと、偉そうなことを後半に書いている。
諸々含めてつづきへどうぞ。
七海という少女が姉夫婦と叔母と一緒に生活することになってから失踪するまでの物語だ。
怪しい記者が七海の関係者に質問する現在パートと七海に何があったかの過去パートを交互にしながら物語は進む。
七海の周りには、姉、姉の夫、叔母、体育教師、彼氏がいる。
物語の最初は居心地の悪さは有りつつも、それぞれの営みができる範囲で過ごしている。
登場人物たちは悪人ではないが、全員が利己的で七海を思い遣る余裕がない。
背景に東日本大震災の東北を舞台にしているが、大震災の影は感じない。
一つ一つの問題はそれぞれタイミングや注意さえすれば解決したかもしれない。
解決しなくても一つならば時間をかければ七海の中で融和したかもしれない。
しかし、それぞれがそれぞれの利己で動いた結果、一つ一つが折り重なって、七海の逃げ場がなくなった。
東京に住んでいる伯父さんに「今すぐ東京に連れて欲しい」と言ったシーンでは、心情の描写で「選択肢は無限にない、私には選択肢なんてない」と絶望している。
大人であれば、飛び出して一人で東京に行けたかもしれないが、子どもである七海には到底できる話ではなかった。
自らの居場所も、逃げ場も失って、彼女は一人海へと向かった。
芝居はとても長かったが、私の好きな物語だ。
最初は遠い存在であった叫ぶ男ビーマンが、最後は最も七海と心情に近い人間になったのも面白い。
実に毒々しくて、悲しく、良い物語だ。
その出力の芝居、役者陣の奮闘は素晴らしかった。
個人的には主役の七海の叫びが美しくて良かった。
劇団タヌキ王国の芝居は好きだ。
ここまでは『死ンデ、イル。』の所感だ。
ここから先は所感というよりは私の目指す「間」というものについて考える。
劇団タヌキ王国さんの芝居は、ナチュラルな演技を目指したのだろう。
ただ台詞を言っているのではなく、台詞を自分の言葉で言う芝居だ。
その折り重ね方がとても良かった。
ただ、気になる点もあった。
例えば、七海と彼氏の翔がビーマンに絡まれている所に体育教師である丸山さんが来る場面、間が変に感じた。
何ていうか、ヌルっと入ったような感触があった。
私だったらあの場面はメリハリをつけるなら、多少ピリッとされた方が良い。
不審者に対してもっと厳しい態度でも良かった気がする。
そして、メリハリをつけるなら最初の間は丸山の声かけで全体に無言、間のできる時間を作った方が登場が分かり易い。
それから現在パートで記者の古賀が七海の姉の夫である幹夫に質問している最中に翔が爆弾発言をして場が混乱するシーンも少し気になった。
混乱しているのだからバタバタするのは分かるのだが、部分部分で全体的妙なヌルっと感があった。
稽古した部分とアドリブの部分があったのかもしれない、と考察してみる。
自然な演技、というのを度々お話で聞いていたし、話を聞く度に演技の難しさ、面白さを感じた。
今回の劇団タヌキ王国さんの芝居は自然な演技を目指していたと感じた。
そうした演技を私も目指しているし、今回の芝居は好きだ。
その上で、間というものが如何に難儀な言葉なのか痛感した。
動きや演出でエンタメに全振りすると、間が死ぬと考えてた。
相手の反応を感じてから動いたり喋ったりすれば、その時々の間が生まれるから、先々の動き、形を決め過ぎると間を殺すことになる。
観客を楽しませるためには位置取りや動きは決めなくてはならないが、役者同士の掛け合いの妙が無くなる、気がしていたのだ。
しかし、今回の芝居を見て、数秒の間の変化さえ違和を感じた。
普通の会話ならスルーできたかもしれない間が、物語上で生まれるとささくれに引っ掛る。
この場面ならもうワンテンポ空けた方が自然だとか、この会話ならもう少し詰めた方が見易いとか、感じた。
自然な演技をすれば自然な間になると考えていたが、そうは問屋が卸さないらしい。
自然に見える演技をしなければ、自然に見える間にならないのだ。
そして自然に見える演技をするために自然体が必要なのであって、自然な演技をしても間が死ぬこともある。
私の感覚で言語化しているので、他の人から見たらはじめから何も違和がないとなるかもしれない。
つまり、私の好みの問題なのかもしれない。
私は間を活かす芝居が好きで、間を活かせる役者になりたいのだろう。
言うは易く行うは難し、形から入るエンタメ気質の私に自然に見える演技は遠い。
自分が下手くそなのに、自分より明らかに格上を捕まえて間を殺してるとは大言壮語も甚だしい。
しかし、言葉にしなければ何を目指しているかも分からないので、汚い愛嬌で誤魔化しにかかる。
言語化すると、私が求めているレベルは商業くらい高い気がする。
どう画として見せるのか、必要な間はどの程度なのか、感覚と計算の落し所はどこなのか。
演出の仕事はかなりシビアなのかもしれないと感じる。
以上、感想と私の好みの話はおしまいだ。