この記事を書き始めたのが、2019年5月である。
それからずっと下書きで塩漬けされていた。
何となく気が向いて書き上げて、4500文字オーバーになる。
中々どうして、気合の入った記事だ。
書き上げられて私はとても満足している。
とても長いので、「つづき」機能を使って折り畳む。
お時間ある方はどうぞ、本文へ。
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目次
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はじめに。
私は自分に対して負の感情を抱く。
対して相手に怒りや悔しさは薄い。
しかし、ある出来事で強い負の感情を感じた。
私自身驚きがあったのだが、その時に「どす黒い」感情とは何だろうか気になった。
私が感じた負の感情は「どす黒い」で合っているのか?
この記事はそうした「私」の自意識の追求した記事だ。
1、「どす黒い」という感情はどんな色か?
不平不満を感じたことはない、と言えば嘘になる。
どうしてそのようなことを言われなければならないのか、悶々としてしまう。
しかし、大抵は自分の中でどうにでも処理できることばかりだ。
私の落ち度がある場合は、猛省した上で、自分なりに改善策を思案する。
その改善策を提案することは滅多にないが、次はないように気を付けてはいる。
雑な性格だから、改善策を考えて自己防衛しようとするのは、ちょっとした癖かもしれない。
私に落ち度がない場合、よくよくと考えてみる。
相手がどうして私に注意したのか、私なりに事由を思い浮かべる。
そうすると、「そうだったら、仕方ないかもな」と落とし所は見付かるものだ。
故に、不平不満を感じることはあるが、それほど長引くことはない。
角砂糖2つくらいの憂うつとミルク大さじ1くらいのストレスを真っ黒なコーヒーと共に飲み干してしまえる。
図太いのか、能天気なのか、その場限りでやり過ごしている。
そんな私が、カチンときたことがあった。
包装作業中、印字用のリボンテープを交換するときのことだ。
私は一通りの作業を一度しっかりと終わらせてから、新しいリボンテープの交換をしようとした。
すると、一緒に作業をしていた方(以下Bさん)に唐突に「ちんたらやってないで、早くやって!」と怒鳴られたのだ。
突然怒鳴られたものだから心底驚いた。
そうして何故に怒鳴られたのか皆目見当が付かなかった。
確かに作業は遅かったかもしれない、一通りの確認作業で省ける部分はあった。
Bさんが短気な性格なのも承知していた、ちょっとイライラしたのかもしれない。
しかし、Bさんに怒鳴られる謂れはない。
サボっていた訳でもないし、Bさんは大人しく待機していれば良いだけの話だ。
仕事をしていないなら分かるが、今回のことで私に落ち度は全くない。
腑に落ちず私も苛つき始めたことが自覚した。
作業に戻ってしばらく、私が書類を書くときにBさんは「もっと早くやってよ」と言葉厳しめに言ってきた。
カチン、と来たのはその時だ。
心中で「ババア、黙れ」と呟いた。
今度は自分自身に驚いた。
まさか心中とは言え、「ババア」と言う言葉が出てくるとは考えもしなかった。
「ババア」と言う毒の強い言葉に、顎が外れそうだ。
作業中、何度も何度も「ババア」と頭の中で繰り返した。
何度も繰り返すと次第に可笑しくなってきた。
「ババア」と言う毒に笑いが込み上げてきて顔がにやけてしまった。
他人に対して、悪感情を抱くことはほとんどない。
なるべく相手の長所、良所を見るようにしている。
Bさんに対しても「概ね良い人」と私は捉えている。
しかし、この時に感じた感情は正しく悪感情であった。
これがどす黒い感情か、と今まで気付かなかった発見に胸を躍らせた。
ああ、私にも人間らしい感情はあったのか、と。
やれやれと、「ババア」というどす黒い感情を私は一処に処理しようとした。
ふと、「どす黒い」とは一体どんな色であろうか、と考え始めた。
きっとこの感情とは関係ないことだろうが気になってしまった。
私の抱いた悪感情は、一つ、「どす黒い」と表現されるものだ。
しかし、私のこの感情が「どす黒い」という色なのか、は分からない。
感情に色があるかは、私には判別しかねる。
そも「どす黒い」とは何を以て「どす黒い」なのか?
一言に黒と言っても色々とある。
私の想像し得る黒について一つ考えてみる。
2、カラスと家庭用電化製品と酸化した血の黒さ。
早朝のゴミ集積所にはカラスの群れをよく見かける。
かあかあ、と鳴く声は何処か物悲し気に聞こえる。
私が黒、として真っ先に思い付くのはカラスの黒だ。
カラスは全くもって黒いだろう。
全身黒一色という、潔さを感じる。
日中だとあれほど存在感のある黒もないだろう。
今回の「どす黒い」色はカラスの黒さだろうか?
不吉を呼び込むだとか、良いイメージはないかもしれない。
しかし、カラスの黒さは、違う気がする。
「カラスの濡れ羽色」という言葉がある。
濡れたカラスの羽の色のように、黒くつややかな髪を指す言葉だ。
黒くつややかな髪を指す、褒め言葉だ。
八咫烏は神話に出てくる三本足のカラスだ。
日本サッカーのシンボルとして有名だろう。
八咫烏の黒さも格好良い、と私は感じる。
どうもカラスの黒さは違うように感じる。
どす黒いカラスも居そうではあるが、羽がボロボロなカラスをイメージしてしまう。
そうなると私は可哀想が先立つので、今回の「どす黒い」とは合わない。
家庭用電化製品は様々な色がある。
とは言え、主流の色はあるだろう。
家庭用電化製品の主流はシルバーかブラック、ではないか?
あの無機質な色合いは寒々しさを感じなくもない。
他の色もあるが「ブラック」、つまり黒はどの家庭用電化製品にある。
私の深層心理に根付くくらいには黒色が多くあるイメージがある。
今回の「どす黒い」色は家庭用電化製品の黒さだろうか?
いや、家庭用電化製品の黒さは、シャープな黒だ。
格好良くてシンプルで濁ったイメージではなく、家庭用電化製品も違う気がする。
「どす黒い」は酸化した血の黒さだろうか。
この身体から吹き出す血が黒くなったものが「どす黒い」となったのだろうか?
腐敗する死骸を忌避するイメージが「どす黒い」となるだろうか?
しかし「死」は美化されることもある。
私の抱いた感情はもっとドロドロしていて美しいものではない。
血が抜けて真っ白になった死体は何も感じないことも関係あるだろうか?
「どす黒い」死体はあるだろうが、私の感じている「どす黒い」とは違う気がする。
何故なら、静寂さをまとった「どす黒い」死体とはむしろ真逆で、激情の中で生まれた「どす黒い」だからだ。
酸化した血の色は停滞のイメージもあり、過ぎ去っていった私の「どす黒い」とは性質が違うように感じる。
カラスの黒さ、家庭用電化製品の黒さ、酸化した血の黒さ。
一つ一つ考えてみても、答えらしい答えにならない。
私の抱いた「どす黒い」の色は、「黒」なのか?
3、悪感情と黒は繋がらない。
「黒」の色を模索する中で、私と中の悪感情と結び付かないことに気付く。
私の中で「黒」は格好良い色なのだ。
確かに悪役は「黒」が多いが、「黒」=「悪」ではない。
「黒」一つとっても、様々なイメージがある。
先に列挙した事柄からも分かる。
「黒」は「悪」のイメージ “も” ある。
それを踏まえて尚、私が抱いた悪感情は「黒」ではない。
何故なら、もっと色々な感情が入っているからだ。
一番強い「ババア」という悪感情があるが、それを俯瞰して可笑しく感じたのも事実であり、また強い言葉で悲しくなったのも事実だ。
こう考えると、私の心象に「どす黒い」に該当する色がない。
そも「ババア」の悪感情の発露にごちゃごちゃした複数の感情がありそうな気がする。
一緒くたにしているが混ざっていない、遠目で見たら「黒」という言葉になるのかもしれないが、やはり「黒」ではない。
感情のサラダボール、私の中で巻き起こった様々な感情を一つの色に統一するのは不可能なのかもしれない。
もしこの「どす黒い」感情に色を名付けるとしたらどうなるだろうか。
その色はきっと私が知っている色だろう。
私が知っている色、それは私が経験してきた色であり、私の思い出の色だろう。
カラスの黒で私は都会を思い出す。
家庭用電化製品の黒で居間のテレビの風景を思い出す。
酸化した血の黒さは私は引っ掻いて出来たカサブタの色で、それは細やかな色である。
もしも「どす黒い」ものに色を着けるなら、私の記憶の中から探すしかなかろう。
私が抱いた感情は私の思い出の風景の中から「色」を見付けるしかない。
そうして近しい色が私と他者と繋ぐ色だと良いのだが、生憎そうした他者と同じ視線で物事を見れていない。
似たような色ではあるだろうがその人の人生、経験、思い出の色は私のいう色と違うだろう。
私の「どす黒い」も他者の「どす黒い」も解釈違いはある。
シンプルに「黒」とした方が良いのかもしれないが、本当に伝えられているかと言えば全く伝わっていない。
言葉の難しさ、共感することの難しさに思いを至る。
素直に「どす黒い感情は黒い色」と言った方がお互いに良い気もする。
対人関係において妥協することは大事だ。
しかし、私の折角抱いたこの「どす黒い」感情を妥協した言葉にするのは、勿体ない。
感じたことをそのままにしか言えない私はこうして四苦八苦する。
もっと器用に生きたいのだが、自分に対して妥協ができないのだから仕方がない。
4、より具体した「色」を説明できるその日まで。
「ババア」と感じた私の感情の色は何色だろうか?
迷走に次ぐ迷走で迷って答えに窮する。
何せ過ぎ去ってしまった初めての悪感情で今まで経験したことがない。
つまり「私の中で経験したことがない」感情なので判断ができない。
ただ、色について断言はできないがそうした感情を抱いたことは確かだ。
ならば今後はそれらしい色、「私にとっての「どす黒い」に相当する」色が見付かるかもしれない。
広く一般ではないかもしれないが、私にとって「どす黒い」に類する色はあるだろう。
そも私自身が広く一般的ではない。
私の中で「確からしい」と感じ思考して決めるから意味があるのだ。
この「どす黒い」は強いて言えば、借り物の言葉だろう。
シンプルに「どす黒い」が「黒」ならば、イメージが共有できる。
イメージが共有できれば、他者との円滑なコミュニケーションとなる。
孤立しないためには、共有できるイメージが必要だ。
「どす黒い」の色が「黒」なのは、共有しやすい色だ。
そういう言葉で使えば、私の苛立ちも伝え易い。
本当の所は全く違うイメージにも関わらず、イメージが共有できる。
細部を語ろうとすれば、この記事みたいなグダグダな文章になる。
人の言葉を借りている、良くも悪くも。
文字にし、言葉にし、何遍も鞣すように繰り返した「どす黒い」感情は気付けば何処へなりと消えている。
あの瞬間、感じた感情は青天の霹靂であった。
また感じる時が訪れた時には、より具体した「色」で説明したい。
悪感情に振り回されて、驚き、自分自身の裏を知る。
単純な私の奥底の固定観念の水面の波紋を興味深く覗き込む。
されど忘れても構わない、折り重ねた多層の「色」、私の自意識を認識できれば良い。
いつの日か、私が抱えた感情をより鮮明な「色」で例えられるように日々を過ごす。
いつの日か、今この瞬間をより具体して認識できるように日々を過ごす。
そうして、私は「私」の自意識をより知る。
その日まで、また思い出す日まで忘れておこう。
その瞬間、その瞬間の私に期待して。
そうして私は私が抱えた「色」をそっと手放した。
おわりに。
長々と書いたが、書き終えて感じるに随分と遠くにきた。
今振り返っても、あれほど強烈な負の感情は抱けていない。
2019年5月なので大体4年経っても記憶としてあるのが「ババア」しかない。
4年の月日が流れたから新しい経験も積んだが、適した色はあっただろうか?
時間が経ってより曖昧になったかもしれない。
それほど「ババア」と感じる悪感情に出会う機会がない。
これを喜ぶべきかもしれないが、人との関わりできちんと関われているのか不安にもなる。
真正面からぶつかる勇気を私はまだ持っているのか?
ないないと油断している時に不意に訪れるだろうから、先の見通せない怖さはある。
私はより鮮明な「どす黒い」を「色」で指し示せるほど経験できただろうか?
未だ手探り、変わる私は変わらない私を見逃さないか。
変わらない私は変わる私に受け入れられるだろうか。
あの日抱えた「色」の行方を知る人は居ない、4年後の春より。