カケルの手に引かれながら僕は道なき道を歩く。
カケルの目には社の姿がはっきりと見えているかのようだ。
それは幻想かもしれないと疑う様子もなく、闇に潜む蛇や鬼に怯えることもなく、その足取りは無邪気なほど軽かった。
「お兄ちゃん、もうお弁当を忘れちゃいけないよ?」
僕よりも先に歩くカケルはちょっと生意気そうにそう言った。
兄の手を引いて歩いているのがカケルは誇らしかったのだろう。
「もう、お弁当を忘れちゃうなんて。お母さん言ってたよ。『だからもっと早く起きなさいってあれほど言ったのに』って」
「はいはい…そう言えば、その弁当は?兄ちゃん起きたとき、弁当らしき物を見た気がしないんだけど?」
「ん?…えっと、ふわってなった時はあったよ?それで…あれ?どうだったっけ?」
カケルは眉間に皺を寄せて考え始めた。
この様子だと何所かに落としたのだろう。
落ちた拍子にカケルの頭からすっぽりと抜けたに違いない。
僕は思わず笑ってしまった。
「カケル、もしかして、何所かに置いて忘れているんじゃないのか?」
「そ、そんなことないよ!ちゃんと持って来たもん!えっとね、えっとね…」
「ああ、悪かった悪かった。兄ちゃんがきっと見落としてたんだ。カケルはちゃんと持って来たもんな」
「…うん、ちゃんと持って来たよ?」
カケルは首を傾げながら愛嬌を振りまく。
全く、仕様がない奴だ。
でも、カケルの足は歩みを止める事なく動き続ける。
弁当を忘れたのに、社の方向は覚えているのも何だか笑えた。
一瞬、不安がよぎる。
本当に大丈夫だろうか?
それでも僕の足は夢の中を歩くようにふわふわとしながら、カケルの手に引かれていた。
月の上を歩く時はこんな感じなんだろうか。
一歩踏み出す度に身体の芯がぐらついて、一度身体が沈む。
その足を引き上げると今度はバルーンで身体が引き上げられるように浮かび上がる。
頭もどうもぼんやりしている。
さっきから僕は夢の中を歩いているようだ。
まるで覚束ず、カケルに手を引かれるがままだ。
思いの外体調が優れないのかもしれない。
カケルが来るまで僕は倒れていた訳だから、僕の身体が不調を来していても何ら可笑しくない。
しかし、何もこんな時に崩れなくても…僕は自身の身体の弱さを静かに呪った。
「お兄ちゃん、もうすぐ、社だよ」
カケルが僕に声をかける。
でも、今カケルがどんな顔をしているのか、ハッキリと見えない。
社が見えたのだろうか?
本当に社なのだろうか?
このおぞましい場所から出られるのだろうか?
嗚呼、駄目だ。
僕は巨大なパズルの箱の中に居て、その箱を思いっきり振られているようだ。
1ピースづつは目に飛び込んで来るが、そのピースは凄いスピードで僕の前を通り過ぎ、それが何なのか把握できない。
この箱は振られ続ければ、何時か全てのピースが嵌るなんて奇跡が起きるかもしれないが、それが到底叶わない夢物語である事を僕は知っている。
「お兄ちゃん、ほら!着いたよ!」
顔を上げると、確かにそこは社があった。
しかし…何かが変だ。
まず、紅い鳥居が連なっている。
いや、お稲荷さんが祀っているなら、紅い鳥居が連なっていても別段変じゃない。
でも、高木神社にお稲荷さんはあっただろうか?
それに、鳥居の数が尋常じゃない。
僕の居る所から社までの間に百は優にあるように見える。
それに、社もそれなりに離れているのに闇に浮かび上がるようにしっかりと僕の網膜に映っている。
青白く光っているようにさえ見えるのは幻覚か?
決定的なのは、社に向かって風が吹き込んでいることだ。
かさかさと葉が転がりながら鳥居の中へ中へと迷い込んで行くのを見て、僕は直ぐにここから立ち去らなければならない、と強い危機感と共に僕は立ち止まった。
「お兄ちゃん、どうしたの?早く社に行こうよ?」
カケル、そっちは駄目だ!
僕は必死になってカケルに言おうとした。
しかし、僕の意識とは裏腹に僕の足は進み始めた。
カケルの手に抗う事もせず、僕の口は上手く開かない。
駄目だ、カケル、そっちは駄目だ、帰れなくなる…
「そちらに行っては駄目!」
誰かの声がした。
と同時に僕の襟を誰かが掴むと、思いっきり後ろに引っ張られた。
カケルとの手と僕の手が離れながら。
CMの終わりから今まで見ていた番組が始まるまでの一瞬の間に細切れにされたCMが流れるように、視界がカケル、鳥居、木々が通り過ぎた。
僕が尻餅を着いて、目を閉じて、再び開けるまで、僕は手の感触を探していた。
しかし。
カケルの手は僕の手から離れ、鳥居の中にカケルは立っていた。
しまった、手を離してしまった!
僕は自分がしてしまったことに激しく後悔した。
「カケル!待っていろよ!」
僕は必死にそう叫ぶとその場から立ち上がろうとした。
「落ち着いて」
また何所かから声が聞こえる。
女性の声だ。
その声の主か、僕の両肩に手が置かれると僕は情けなく地面にへたり込んだ。
そうして肩に置かれた手は何も言わずにそっと離れた。
僕はその時になって初めて後ろを振り返り、声の主を認識して、驚いた。
美しい女性だった。
そう、『美しい』と言う形容詞そのものだった。
肌は今まで見た白よりも白く、人の肌と思えなかった。
目は満月のような輝きを放ち、唇は薄い紅を差したかのような淡い色をしている。
黒い髪は腰ほどに伸び、身体は凛として背筋を伸ばしている。
腕や足は細く、指はしなやかな線を描いている。
格好は黒のセーラー服を着ていたが、首元の赤いスカーフや長いスカート、黒のハイソックスに革の靴まで、何所か彼女の身体に寄り添うようにぴったりとくっついているようだった。
鼻も耳もどの部分を見ても個性的に主張していて、しかし全てが調和し、洗練して彼女を形作っている。
彼女は大人びていて、可愛らしくて、妖しくて、無邪気そうで、なまめかしくて、あどけなくて…僕の少ないボキャブラリーではとても言い尽くせそうになく、ただ『美しい』と言う言葉を体現したようなその人は、僕の横で静かに立っていた。
「落ち着いて。まずはゆっくりと立ち上がるの」
異空間に存在するその『美しい』は小さくも透き通るような声で僕に言った。
その言葉は妙な説得力を持って僕に訴えかけ、僕はその声に従った。