もうすぐ日が明ける、午前4時、ゆったりとコーラを飲む。
よく寝たので、眠気はなく、頭は冴えている。
ウオオと熱気を発している石油ストーブの音が静かに部屋に木霊する。
ふと、ある考えに囚われる。
私の悲しみや辛さは、どうしたら良いのだろうか?
反響する思考は、ずぶずぶと私を自意識の渦へと誘う。
私の愛した祖母は居ない。
どんなに会いたいと願っても、会うことは叶わない。
もう会うことが、できない。
夜勤明けの信号待ちで見上げた青空と青い山々の荘厳さに触れたとき。
トイレに入って、トイレットペーパーが残り僅かであることに気付き、何となくその場で中腰になったとき。
自販機で、いつも買う缶コーヒーを飲んで、一息吐いたとき。
実家の玄関から出て、扉をぱたん、と閉めたとき。
黙々と仕事をして、もうすぐ休憩時間かな?と周りを見渡したとき。
海のさざ波をこの目で捉えたとき。
何の前触れもなく、祖母を思い出す。
そうすると、胸の奥で仕舞っていた、恐らく、「悲しい」と言うであろう感情が沸き上がってくる。
急に泣きたくなって、慌てて、その感情に蓋をする。
周りに気取られないように、慎重に、丁寧に、蓋をする。
そうして、何でもない顔をして、元に戻る。
私は、ずっと、ずっと、悲しい。
本当に、悲しい。
そう言うしかなく、そう言う言葉しかないことが、悲しい。
世界を見渡せば、私より可哀想な人間はいる。
干ばつによる不作で、飢餓になる子どもたちがいる。
戦争によって愛する人を目の前で殺された女性がいる。
スラム街から抜け出すことができず、ボロボロのシャツを着ている青年がいる。
信じていた部下に裏切られて、栄光の人生から転落して、ホームレスになった老人がいる。
日本の中だけでも、私より辛い人はいる。
健康診断で末期のガンが見つかり、余命宣告された人がいる。
一つのミスに対して呼び出されて、朝から晩まで叱責され、頭を下げ続ける人がいる。
飲酒運転の自動車に轢かれて、延命装置で命を繋いでいる人がいる。
親が認知症になり、自分の子どもの顔が分からなくなった人がいる。
私より、可哀想な人は、確かにいる。
私より、辛い人は、確かにいる。
それで?
それで、私の悲しみや辛さは、どうすれば良い?
「あなたより可哀想な人がいる」、分かっている。
だから、私が悲しいと嘆くのは迷惑か?
「あなたより辛い人は大勢いる」、分かっている。
だから、私が辛いと訴えるのは間違いか?
この話が正しいとするならば。
もし、世界中で一番、可哀想な人が居たら。
その人以外は悲しいとは言えないし、辛いとも言ってはいけなくなる。
何故なら、世界で一番に悲しくて辛い人が1人、いるのだから。
「あなたの言っていることは間違っている」、分かっている。
「世界中には、悲しい出来事や辛い出来事がたくさんあって、それらと比べて、あなたのはそれほど悲しくもないし、辛くもない、ということだ」、勿論、分かっている。
「絶対的な悲しみや辛さではなくて、相対的にあなたは悲しくないし、辛くない」ああ、分かっている。
それで?
だから、私の悲しみや辛さはどうすれば良い?
「運動をすれば?」、そうかもしれないね。
「勉強をすれば?」、そうかもしれないね。
「もっと楽しいことを考えれば?」、もっと?もっと楽しいことか。
「夢に邁進すれば?」、夢?そうすれば良いの?
「悲しくないのだから、忘れてしまえば?」ああ、確かに、楽だね。
「一度、全部、紙に書き出したら?」成る程、そういう方法もあるね。
「あなた自身で考えなよ」いやはや、全く、その通りだ。
それで。
私の悲しみや辛さは、だから、あなたに渡せない。
運動しても、勉強しても、意味がない。
もっと楽しいことや夢を見ても、思い出す。
忘れられないから、悲しい。
紙が何枚あっても、足りやしない。
私の悲しみを、どんなに伝えても、結句、どうにもなりはしない。
私の中にあるこの「悲しい」は、私の物だ。
終生、私はこの「悲しい」を持ち続けるだろう。
癒えやしないのだ、癒してはならないのだ、癒したくないのだ。
我侭、きっと、祖母は困った顔をしていることだろう。
世の中には、私の悲しいより悲しくない人はいる。
私の辛いと比べて、辛くない人はいる。
両親と門限を破ったことで喧嘩した。
猫の死骸を見てしまった。
友達の彼氏を好きになってしまった。
家の鍵を机の上に置きっ放しにしていたことを、電車の中で気付いてしまった。
大した事ない、詰まらない、そうした悲しみや辛さはある。
それで?
それで、その人の悲しみや辛さは、どうすれば良い?
シャーペンの芯を友達に折られた?替えがあるじゃないか、意味が分からない。
コンビニで笑顔で挨拶するアルバイトの女の子がいない?辞めたんじゃないの、下らない。
1日が24時間じゃなくて、25時間じゃないかって?いや、24時間だよ?大丈夫?
嗚呼、どうして、遮ってしまうのだろうか?
意味が分からないなら、もっと話を聞けば良いじゃないか。
下らないと一蹴する前に、もっと耳を傾ければ良いじゃないか。
常識で語ってすべて丸く収まるなら、感情など要らない。
分かっている、聞こう、耳を傾けよう、と考えるようなことじゃないと感じているのは。
分かっている、他にも考えなければならないことがあって、人を受け入れる余裕がないのは。
分かっている、私だって、気付けないことの方が多いし、察するなどできないことは。
だから、これは、我侭にもならない、暴論だ。
あえて、言い切る。
悲しいと言う人に、ただ、寄り添えられる人でありたい。
意識が浮上してくると、何ともまた、形容し難い記事を書いてしまった。
聖人君子じゃあるまいし、誰もがそんな生き方ができる訳ないのに。
自分の大事な人にさえ、そうしたシグナルに気付けるかどうか、分からないのに。
全くもって暴論だ、聞くに堪えない暴言だ。
だけど、故にか。
そうした気持ちを、小さな箱の中に慎重に、丁寧に入れて、私の「悲しい」の横に邪魔にならないように、そっと置いておこう、と。
誰にも強制したくない、誰にも押し付けたくない。
ただ、私が、そう考えている、それだけの話だ。
ウオオ、と石油ストーブの音が木霊する、午前5時。
日の光は、もうすぐ、そこまで。