三日月が鋭く光っていた。
それはそれはエッジの効いた黄金色の三日月が、万遍なく拡がる墨色の夜を切り裂いていた。
よく猫の目で例えられる三日月だが、頭上に輝くあの三日月はネズミを甚振っている時の猫の目のような、無邪気さとおぞましさがあった。
よく見れば三日月の正体、月の輪郭もすーっと絹糸よりも細い光の線で縁取られていた。
いや、月の輪郭があるように見えるが、果たして私の見た月の輪郭は本当に墨色の夜を切り取っているのだろうか?
あまりに鋭い三日月の光に、私の目玉も抉られてしまって「月の輪郭がある」と錯覚しているのではなかろうか?
一晩経って、朝が来た。
白色と橙色と薄紫色が混ざり合って東の空を染上げていた。
まるでエミール・ガレのアンティークガラス工芸品のような日常を彩る繊細な美しい空であった。
太陽が東の山からその身を完全に現したら、混ざり合った色は空色一色に変わるだろう。
私の吐いた息が白いだけでなく、小さな光の粒を乱反射して輝いた。
しかし、私の吐く息に輝く光の粒は、今の感傷が見せているだけではなかろうか?
この目に映るすべてが虚構で、夢幻だとしたならば。
本当の世界はどんな姿形をしているのだろうか?
三日月の輪郭も、吐く息に乱反射した光も、それを映した私の目玉はただのガラス玉なのだろうか?
本当の世界は「無」で、この世界は「想像」で作られて、その「想像」が私の目から世界へ映写しているのだろうか?
そうすると、私は私の想像で毎回驚いたり、感動したりしているお目出度い人間ということになる。
随分と間抜けに見えることだろう、外から見た人にしてみれば。
若しくは、世界は私が感じているよりもっと平坦なのだが、私の目が私に都合が良いように作り替えてから網膜に貼り付けているのだろうか?
とすれば、私は現実を直視できない道化か、はたまた誇大解釈するロマンチストか。
やはり愚か者に見えることだろう、他の人からしてみれば。
周りの目を気にするのであれば、空を見上げなければ良いのだ。
皆と同じように真っ直ぐ前を見て、皆と同じ動きで歩けば良いのだ。
そうすれば、間抜けにも愚か者にも見えないことだろう、少なくとも。
しかし、三日月も東の空も、私は気付いたら見上げていた。
これはもう癖になっている。
空を見上げて、何かを探す、そういう癖が身体を動かしている。
感度を上げたいと考えるに、感度を上げれば、主観に陥り易い。
だから、なるべく客観になれるようにしようとしているが、振り返るに、主観でしか語れていない。
嗚呼、上を見上げて、笑いながら嘆くしかない。
三日月が鋭く光っていた。
一晩経って、朝が来た。
私は空を見上げて、何かを探した。
たったそれだけのこと、たったそれだけのことだ。