Twitterで「#君・僕・死で文を作ると好みがわかる」とハッシュタグを見付けた。
何となしに書いてみたのが、下記の文だ。
#君・僕・死で文を作ると好みがわかる
— 上の小枝(カミちゃんでも可) (@namakemono4416) 2022年1月6日
君や僕がこの地球上に居なくなったとしても、朝日は昇るし、烏は死ぬ。
もう一言、「そういうことを幸せと呼ぶ」と書こうとして止めた。
「君や僕がこの地球上に居なくなったとしても、朝日が昇るし、烏は死ぬ」ことが、「幸せ」とは感じない人もいるだろう。
あと、好みの文として「そういうことを幸せと呼ぶ」と一言足すのは蛇足な気がした。
ただ、私がこの世界から消えてしまったとしても、世界はいつも通り運行するのは安心できる。
私が消えてしまったら、たちまち物の道理がおかしくなって、すべての人々の基盤が足元から瓦解して、世界が何一つ立ち行かなくなる方が怖い。
物は道理に従い、人々の基盤は揺らがず、世界はいつも通りであるから、ちっぽけな私はいつでも安心して居なくなれるのだ。
私が産まれる前から山はあって、私が死んだ後でも山はある。
1億年前にくらべたら地形は変わったが、100年で1cmの土ができるぐらい微々たる変化は変わってないのと等しい。
1000万光年先の星の光は6等星の輝きは、手元の明かりが照らす強い光で消えてしまいそうだ。
私を必要としない世界で私はただ存在している。
山や土や星もただ存在しているだけだ。
私の生きる日常に必ずしも山も土も星も必要ないように、山や土や星が私を必要としない
お互いにただ存在しているだけ、それだけなのに、「必要」という言葉で意味付けしてしまう。
そこにいるのに何か意味を求めてしまう。
奇跡など詰まらない、事の成り行きでそういう風に存在するだけだ。
私がどうして生きているのか?
事の成り行きでそうなったから、それで良いのではないか?
もし私が生きている理由があるならば、それは私がこの世からおさらばして、誰かが「そう言えばこういう奴がいたな」と思い出した時だろう。
ただ存在しているだけで本当はみんな幸福だろう。
君や私が居なくなっても、世界は変わらない。
とても明るい、良いことだと私は感じる。
誰からも必要とされなくても、ただそこに存在すれば、誰かの何かになる。
そういう風に世界はできてる、と文を考えて私自身の世界観にはたと気付く。
自分の小ささを前向きに捉え過ぎているのかもしれない。
などと考えた1月某日なり。