リストカットについて考える。
SNSでリストカットについて書いている人がいた。
片方はFacebookで、もう片方はTwitterで。
この両名はお互いに完全に面識のないのだが、言っていることが似通っているな、と感じた。
端的にまとめると「私がリストカットをする理由を勝手に決め付けるな」、「本気で死のうと考えてリストカットする人間もいる」、「リストカットする人間にも色々いる」である。
リストカットの多様性の主張、と私は捉えた。
生きるためにリストカットをする人と、命を絶つためにリストカットをする人を区別しろ、ということだろうか?
私は私の身体に好んで傷を付けない。
単純に「痛い」と想像してしまって、できない。
しかし、別にリストカットをしてはならないとは考えない。
一般的にリストカットをするのは普通ではない。
自ら死に近付く行為だから、まともな人には理解しづらい。
手首を切っただけで死ぬ訳ではない、と言っても、普通は切らないのではないだろうか?
その普通ではない行為に「区別」を求めるのは、少々酷な気もする。
全くの赤の他人には、死ぬための行為に見えるだろうから。
リストカットをする人の人間性を推し量るのは、他人には難しいのだ。
心配して声をかけてきた人間に「何も分かっていない」と突っぱねる。
心配した人は理由が分からずに動揺するし、突っぱねた方は心配してくれたのは分かるから余計に落ち込む。
どっちも傷付いて遣る瀬ない。
煙草と似ているのかもしれない。
煙草はどう考えても身体に悪いが、吸いたくて吸っている人がいる。
私は煙草は全く吸わないし、吸いたいとも考えないが、煙草を嗜む人を非難するつもりはさらさらない。
煙草とリストカットは同じだ、と言っても頭の中に蛾が迷い込むだけだ。
煙草は世の中に周知されている、リストカットは内向的な事象で発覚しづらい。
道端で堂々とリストカットをしている人がいたら、人はその人に決して近付かないだろう。
リストカットを周知するより、その人の人間性を伝えた方が早い。
しかし、中々に自分の本性、本質を言葉にするのは難しい。
言葉にできないから、リストカットにしている人もしるかもしれない。
一般的には理解し難いことだから、生きるためにリストカットをしている人は伝えないと伝わらない。
しかし、リストカットをしていることを伝えること自体が苦痛になるなら、隠さなければならない。
赤の他人には、やはりミソもクソも分からないままだろう。
歩み寄る、ただそれが難しいな、と感じる。
いや、無理に歩み寄る必要がどこにあるのだろうか?
理解できないことを理解できないままにして、何が悪いのだろうか?
理解はできないが、そういうものなのだろうとそっとする。
いや、リストカットにしろ、煙草にしろ、その人のすべてが分かることなど有り得ない。
他者を尊重する、とはまずお互いに理解し得ないことから始まるのではないか?
リストカットを咎めない、私は決してしないけれども。
死にたくてしている人は、その前に別のシグナルを出しているだろうから、それに気付けば良い。
つまりは、どれだけ他者に目を向けているか。
コミュニケーション過多のSNS時代、他者と自分との関係の在り方が考えないといけないだろう。