私の寿命が何時終わるのだろうか。
無事に身体が活動を終える日まで生き長らえたとして、どれほどの長さがあるのだろうか。
齢33歳現在、私の人生の長さを取っ掛かりに考える。
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目次
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1、50年だとしたら。
例えば、私の寿命が日本人平均寿命と同じ84.10歳だとしよう。
差し引き50年の長さがある。
桜を見る機会はあと50回はある計算となる。
50年もあれば、色々とできそうではある。
しかし、実際は寝て過ごす日々が多そうな気もする。
年を取れば腰が重くなるし、身体も今以上に不調が顕著になるだろう。
私の身体がガタが来るのは何時なのか、さっぱり分からない。
ピンピンコロリを目指すなら健康に気を配るべきだろう。
50年、何があるか分からない。
昔見た映画で、「年寄りは長旅するべきじゃない」みたいなことをうすらぼんやり思い出す。
身体が言うことを聞く内に何かしら動いた方が良いのかもしれない。
しかし、本当に年寄りは長旅をしてはいけないのだろうか?
恐らく、迷惑をかける割合が増えるからではないだろうか?
しかし、今もって尚人様に迷惑をかけている身としては今更な事柄ではある。
第一に迷惑を許容する方が生き易い社会になりそうではある。
新しい挑戦をするには十分な時間ではある。
何せ50年だ、一つ10年で物にすると考えても、5つくらいは挑戦できる。
私は演劇を今熱心に取り組んでいるが、あと50年あれば、もう2、3つくらいは何か別の新しいことに飛び込んでも良いかもしれない。
想像する、私のこれからの50年を。
多分、月の半分は寝て過ごす。
残りの半分をわちゃわちゃ何かして過ごす。
あまり今と変わらない気がする。
いや、これは変わらないだろう。
50年後の私は今よりニュアンスに拘った人間になっていそうではある。
2、10年だとしたら。
例えば、江戸時代の平均寿命32〜44歳とした場合はどうだろうか?
44歳とした場合、10年である。
紅葉を見れるのが10回という計算である。
10年だと途端に短く感じる。
1年を10回、瞬く間に終わりそうな気もする。
ただ、10年もあれば何でもできそうな気もする。
身体の不調はある程度無視しても良いのではないだろうか?
44歳ならまだ無理が効くだろう。
何なら、今の仕事を辞めても問題なく過ごせそうだ。
資産形成だとか、関係構築だとか、七面倒な事柄から逃げられそう。
好きなことだけして生きていきたい。
恐らく、無益に無駄に無性に生きて、生涯を閉じるだろう。
今の私が何かを成せるとは考えないが、10年一区切りとするならば、何かの区切りを迎えたい。
44歳、多少マシな私であればそれで良い。
誰か幸せにできたらなら尚良い。
3、今年一杯だとしたら。
例えば、私の寿命が今年一杯だとしたらどうだろうか?
今の所、身体の異常は感じられない。
多少、頻尿になった気がするが、些細なことだ。
今年一杯だとしても、今できることを粛々とするだけだ。
与えられた役割を全うする、仕事でも趣味でも。
目の前の事を片付けて、日常を生きる。
今の仕事も途中で投げ出すのも気が引ける。
貯蓄もできれば決めた金額まで貯めたい。
今年一杯だから、貯金した私のお金は寄付されれば良い。
今年のやるべきことを終わらせる。
取りあえず、10月先まで演劇関係の予定がある予定だ。
10月なら残り2ヶ月を心穏やかに過ごすのに当てられるだろう。
4、振り返って。
こうして考えると、長期、中期、短期で私のスタンスが現れている。
長期では「新しいことに挑戦しよう」、中期では「好きに生きよう」、短期では「与えられた役割を全うしよう」だ。
長期と短期で矛盾が生じているが、中期の考えが緩衝材的な位置付けになっているのだろう。
10年で一区切りとした考えがこうした人生の在り方に影響があるようだ。
ふと「長期、短期、2分」の考え方と類似している。
行動を起こすための考え方だが、人生にも応用できるかもしれない。
私の寿命が何時終わるかは分からないが、今この瞬間にシャットダウンしても後悔はない。
どれほどの寿命があるかは定かではないが、役割を全うし、好きなことをして、時には新しいことにも挑戦するだけだ。
「今を楽しむ」、ひたむきに楽しみ続けられればそれで私は満足だ。
寿命の長さに関係なく、今を楽しめれば私は満足だ。