さて、無益に時間を浪費したから時間が足りない。
しかし、私の場合はこうした時間が足りない方が良いのかもしれない。
時間が余っていると、余った時間で甘ったれた過ごし方になりがちだからだ。
時間を有益に使えるのはやるべきことをしっかりと習慣化できた人間だろう。
環境も整え、やるべきことをやれるよう工夫し、スイッチの切り替えが割とスムーズな人間なら時間を有益に使えるのだろう。
何遍も書くが、私は兎に角腰が重いし、頭も重いから何をするにも面倒が勝つ。
仕事を辞めた後のことを想像する。
今から1年後の今頃はそろそろ辞表を書いているはずで、6月頃には辞めているはずだ。
そして、辞めた後、きっと時間が有り余ってしまうだろう。
となると、どれだけの時間を無益に浪費するのか、想像だに着かない。
丸1年、何もしなかった、で終わる未来しか見えない。
後ろ盾がないから、切羽詰まってしまったら万事休すになるのだが、そこら辺の危機意識が弱い。
むしろ、辞めた後の私のために今からせっせと環境作りをした方が良いのだろうか?
いや、多分、最初の「せーの」の時点で面倒になっているはずだ。
無益に過ごせるなら無限に無益に過ごしたい、それが私だ。
私自身の人間の尊厳を守りながら生きるのであれば、今の仕事は絶対に辞めるべきではない。
向こうから首を切られる以外で、自ら辞めるというのは自殺行為でしかない。
リスクヘッジをするならば、意地でも辞めずに年金受給まで耐え忍ぶべきだろう。
しかし、頭がトンカチでカチ割れているので、肝心のブレーキが壊れている。
むしろ、人間の尊厳など金繰り捨ててやる、ぐらいの心持ちである。
普通のリスク管理が適用されないから、「仕事を辞める」ことに
リスクを取る前にリスクを減らす、またはリスクを無くす。
それでも無くせないリスクがあって、初めて決断すべきなのだ。
私の場合、通常のリスクがリスクとして機能していない。
存在自体がバグってしまったのかもしれない。
「食べる物が無くなったら、土でも食べれば良いか」とか発想する時点でまともではない。
Twitterのとある狂人曰く、「「狂っている」と自覚している人はまだ狂っていない」という言葉を信じるならば、まだ私は狂っていない。
仕事を辞めた後、凡人とも狂人とも言えない微妙な線で生きていくだろうか?
有り余った時間、多少、自ら動き出す原動力があるだろうか?
自分の人生は自分でしか面倒が見れないのだから、面倒とも言えなくなるのかもしれない。
さて、無益に時間を浪費したが、まだ時間はある。
面倒というラスボスに今日も勝負を挑むことにする。