つい最近、指摘されたことを振り返る。
私の演技についての指摘だ。
曰く、「間を取っていない」というものだ。
普通、何かを役になろうとすれば、その感情の変化がある。
その変化の間がなく、私の演技は突発的に変わっている。
例えば、本を取るという動作があったら、その動作を行う前の本を探す、タイトルや背表紙を見て、探し当てるという間があるはずだが、私の場合はその間がなく、いきなり本を取っている、という訳だ。
指摘を聞いて、私の脚本の指摘を思い出す。
別の人の指摘であり、しかし、私には似通っているように感じた。
曰く、「コントのような脚本」
キャラクターには感情の変化があり、どうしてそういう風な言葉を発したのか、理由があるはずだ。
しかし、私の脚本は「どうして?」問いに対しての最初の一言目が「そうした方が面白いから」である。
そういう脚本が悪い、とかではなく、仕掛けに重きが置かれているという指摘であった。
似通っている、脚本にしても、演技にしても。
私には人間らしい感情の機微が、どうも抜け落ちているようなのだ。
私が「普通」から逸脱していたことがそのまま指摘された内容になる。
どうして、と聞かれても、そういうものではなかろうか?と考えてしまう。
仕組み、システムとして、「それはそういうもの」と捉えている節がある。
まさか、こんなところで私の内面が浮き出るとは、分からないものだ。
何かを表現する、と自然と自己の内面も浮き出るものなのだろう。
それは本人の自覚無しに、自分さえ分からない何かが。
やはり、自己探究は必要だ、と強く感じた。
もっと「私」の自意識を追求する。
結句、そうしたことが、脚本なり演技なりに反映されていくのだろう。
私の無意識がにじみ出るように、他者に伝わる「私」の意識が表現物に宿るのだ。
これで1本書けそうな気もするが、今は置いておく。
表現物と自己内面の関係性、ある意味で重要なワードだろう。
深く、深く、指摘されたことを吟味しようかと考えている。
振り返っても、やはり、私は私の内面に興味があるのだな、と独り笑うばかりだ。