ネガティブ方向にポジティブ!

このブログは詰まらないことを延々と書いているブログです。

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つい最近、指摘されたことを振り返る。

私の演技についての指摘だ。

曰く、「間を取っていない」というものだ。

 

普通、何かを役になろうとすれば、その感情の変化がある。

その変化の間がなく、私の演技は突発的に変わっている。

例えば、本を取るという動作があったら、その動作を行う前の本を探す、タイトルや背表紙を見て、探し当てるという間があるはずだが、私の場合はその間がなく、いきなり本を取っている、という訳だ。

 

指摘を聞いて、私の脚本の指摘を思い出す。

別の人の指摘であり、しかし、私には似通っているように感じた。

曰く、「コントのような脚本」

 

キャラクターには感情の変化があり、どうしてそういう風な言葉を発したのか、理由があるはずだ。

しかし、私の脚本は「どうして?」問いに対しての最初の一言目が「そうした方が面白いから」である。

そういう脚本が悪い、とかではなく、仕掛けに重きが置かれているという指摘であった。

 

似通っている、脚本にしても、演技にしても。

私には人間らしい感情の機微が、どうも抜け落ちているようなのだ。

私が「普通」から逸脱していたことがそのまま指摘された内容になる。

 

どうして、と聞かれても、そういうものではなかろうか?と考えてしまう。

仕組み、システムとして、「それはそういうもの」と捉えている節がある。

まさか、こんなところで私の内面が浮き出るとは、分からないものだ。

 

何かを表現する、と自然と自己の内面も浮き出るものなのだろう。

それは本人の自覚無しに、自分さえ分からない何かが。

やはり、自己探究は必要だ、と強く感じた。

 

もっと「私」の自意識を追求する。

結句、そうしたことが、脚本なり演技なりに反映されていくのだろう。

私の無意識がにじみ出るように、他者に伝わる「私」の意識が表現物に宿るのだ。

 

これで1本書けそうな気もするが、今は置いておく。

表現物と自己内面の関係性、ある意味で重要なワードだろう。

深く、深く、指摘されたことを吟味しようかと考えている。

 

振り返っても、やはり、私は私の内面に興味があるのだな、と独り笑うばかりだ。